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[[Image:Galla Placidia (rechts) und ihre Kinder.jpg|thumb|300px|ガッラ・プラキディアと2人の子供]]
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'''ガッラ・プラキディア'''('''Aelia Galla Placidia''', [[390年]]頃 - [[450年]][[11月27日]])は、5世紀の[[ローマ帝国]]の人物。数奇な一生を送ったことで知られる。ローマ皇帝[[テオドシウス|テオドシウス1世]]とその後妻ガッラ([[ヴァレンティニアヌス2世]]の娘)の間に生まれた。[[ホノリウス|ホノリウス帝]]と[[アルカディウス|アルカディウス帝]]の異母妹である。
'''アエリア・ガッラ・プラキディア'''('''Aelia Galla Placidia''', [[390年]]頃 - [[450年]][[11月27日]])は、5世紀の[[ローマ帝国]]の人物。数奇な一生を送ったことで知られる。ローマ皇帝[[テオドシウス|テオドシウス1世]]とその後妻ガッラ([[ヴァレンティニアヌス2世]]の娘)の間に生まれた。[[ホノリウス|ホノリウス帝]]と[[アルカディウス|アルカディウス帝]]の異母妹である。


プラキディアは、テオドシウスの将でヴァンダル人の[[スティリコ]]とその妻セレナのもとで育った。スティリコは西ローマ帝国で事実上の軍のトップとなっており、彼自身によれば東ローマ帝国でもそうであった。408年、スティリコはホノリウス帝に処刑されたが、プラキディアの同意があったか、少なくとも異論なしだったとされる。スティリコの死により、非イタリア人のローマの将兵が[[西ゴート王国|西ゴート]]の[[アラリック1世]]の陣営に移り、アラリックの軍はすぐさまイタリアを侵略した。
プラキディアは、テオドシウスの将でヴァンダル人の[[スティリコ]]とその妻セレナのもとで育った。スティリコは西ローマ帝国で事実上の軍のトップとなっており、彼自身によれば東ローマ帝国でもそうであった。408年、スティリコはホノリウス帝に処刑されたが、プラキディアの同意があったか、少なくとも異論なしだったとされる。スティリコの死により、非イタリア人のローマの将兵が[[西ゴート王国|西ゴート]]の[[アラリック1世]]の陣営に移り、アラリックの軍はすぐさまイタリアを侵略した。
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[[Image:Ravenna 1978 079.jpg|thumb|200px|ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂の内部]]
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417年1月、兄ホノリウスに強制され、プラキディアは将軍コンスタンティウス([[コンスタンティウス3世]])と結婚した。人の間には[[ウァレンティニアヌス3世]]となる息子と、娘[[ユスタ・グラタ・ホノリア]]が生まれた。421年、コンスタンティウスは短期間皇帝となるが、すぐに死去した。今度は兄ホノリウス自身が求婚者となったが、彼女は子供を連れて[[コンスタンティノポリス]]に逃れた。ホノリウスが423年に死ぬと、[[ヨハンネス]]が皇帝を名乗り、[[フラウィウス・アエティウス]]と同盟を組むが鎮圧され、425年、ウァレンティニアヌス3世が皇位に就いた。
417年1月、兄ホノリウスに強制され、プラキディアは将軍コンスタンティウス([[コンスタンティウス3世]])と結婚した。2人の間には[[ウァレンティニアヌス3世]]となる息子と、娘[[ユスタ・グラタ・ホノリア]]が生まれた。421年、コンスタンティウスは短期間皇帝となるが、すぐに死去した。今度は兄ホノリウス自身が求婚者となったが、彼女は子供を連れて[[コンスタンティノポリス]]に逃れた。ホノリウスが423年に死ぬと、[[ヨハンネス]]が皇帝を名乗り、[[フラウィウス・アエティウス]]と同盟を組むが鎮圧され、425年、ウァレンティニアヌス3世が皇位に就いた。


はじめは息子の名前のもとに統治を行おうと試みたが、彼女に忠誠を誓う将軍が死んだりアエティウスになびいたりするにつれ、帝国の政治は彼の手に落ち、アエティウスは貴族となった。プラキディアは見かけはアエティウスと友好関係を保った。アエティウスはのちに西ローマ帝国を[[アッティラ]]率いる[[フン族]]から防衛する中心となる。アッティラは狙いをコンスタンティノポリスからイタリアに向けたが、それはプラキディアの娘ホノリアからの愚かな手紙のためであった。450年の春、ホノリアはアッティラに、プラキディアを含む皇族が元老院議員との結婚を強制するので、自分を救い出してほしいと送ったのである。プラキディアの最後の有名な行動は、息子のウァレンティニアヌス3世に、ホノリアを殺すよりも追放するよう説得したことである。450年11月にプラキディアは死去し、451年から453年のアッティラによるイタリア略奪を見ることはなかった。アッティラはホノリアの手紙を「合法的な」要請としたが、略奪はゴート人によるものよりも残虐なものであった。
はじめは息子の名前のもとに統治を行おうと試みたが、彼女に忠誠を誓う将軍が死んだりアエティウスになびいたりするにつれ、帝国の政治は彼の手に落ち、アエティウスは貴族となった。プラキディアは見かけはアエティウスと友好関係を保った。アエティウスはのちに西ローマ帝国を[[アッティラ]]率いる[[フン族]]から防衛する中心となる。アッティラは狙いをコンスタンティノポリスからイタリアに向けたが、それはプラキディアの娘ホノリアからの愚かな手紙のためであった。450年の春、ホノリアはアッティラに、プラキディアを含む皇族が元老院議員との結婚を強制するので、自分を救い出してほしいと送ったのである。プラキディアの最後の有名な行動は、息子のウァレンティニアヌス3世に、ホノリアを殺すよりも追放するよう説得したことである。450年11月にプラキディアは死去し、451年から453年のアッティラによるイタリア略奪を見ることはなかった。アッティラはホノリアの手紙を「合法的な」要請としたが、略奪はゴート人によるものよりも残虐なものであった。
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*藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』中公新書、1991年
*藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』中公新書、1991年


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2008年1月19日 (土) 16:29時点における版

ガッラ・プラキディアと2人の子供

アエリア・ガッラ・プラキディアAelia Galla Placidia, 390年頃 - 450年11月27日)は、5世紀のローマ帝国の人物。数奇な一生を送ったことで知られる。ローマ皇帝テオドシウス1世とその後妻ガッラ(ヴァレンティニアヌス2世の娘)の間に生まれた。ホノリウス帝アルカディウス帝の異母妹である。

プラキディアは、テオドシウスの将でヴァンダル人のスティリコとその妻セレナのもとで育った。スティリコは西ローマ帝国で事実上の軍のトップとなっており、彼自身によれば東ローマ帝国でもそうであった。408年、スティリコはホノリウス帝に処刑されたが、プラキディアの同意があったか、少なくとも異論なしだったとされる。スティリコの死により、非イタリア人のローマの将兵が西ゴートアラリック1世の陣営に移り、アラリックの軍はすぐさまイタリアを侵略した。

409年か410年、アラリックによるローマ攻囲の間に、プラキディアは西ゴートの捕虜となった。西ゴート軍によるローマ略奪の間(410年8月24日からの3日間)もプラキディアは連行され、イタリア中をさまよったが、アラリックが死ぬとガリアに移された。

414年1月、プラキディアはアラリックの弟で、その死後に西ゴートの王となったアタウルフナルボンヌで結婚した。歴史家のヨルダネスは、二人は411年にフォルリで結婚したとしている。ヨルダヌスによる日付は、彼女とアタウルフが事実上の結婚を済ませたときであると思われる。プラキディアが生んだ息子はテオドシウスと名付けられたが、幼児のうちに死にバルセロナに埋葬された。のちにその遺体はローマのサン・ピエトロ大聖堂にある皇帝の霊廟に移された。アタウルフは自分が殺害したゴート人の首領の部下に襲われて重傷を負い、415年の夏、いまわの際にプラキディアをローマ人のもとへ返すよう命じた。416年、ゴート王ワリアはローマ人と条約を結んで支持を得る見返りに、彼女を返還した。

ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂の内部

417年1月、兄ホノリウスに強制され、プラキディアは将軍コンスタンティウス(コンスタンティウス3世)と結婚した。2人の間にはウァレンティニアヌス3世となる息子と、娘ユスタ・グラタ・ホノリアが生まれた。421年、コンスタンティウスは短期間皇帝となるが、すぐに死去した。今度は兄ホノリウス自身が求婚者となったが、彼女は子供を連れてコンスタンティノポリスに逃れた。ホノリウスが423年に死ぬと、ヨハンネスが皇帝を名乗り、フラウィウス・アエティウスと同盟を組むが鎮圧され、425年、ウァレンティニアヌス3世が皇位に就いた。

はじめは息子の名前のもとに統治を行おうと試みたが、彼女に忠誠を誓う将軍が死んだりアエティウスになびいたりするにつれ、帝国の政治は彼の手に落ち、アエティウスは貴族となった。プラキディアは見かけはアエティウスと友好関係を保った。アエティウスはのちに西ローマ帝国をアッティラ率いるフン族から防衛する中心となる。アッティラは狙いをコンスタンティノポリスからイタリアに向けたが、それはプラキディアの娘ホノリアからの愚かな手紙のためであった。450年の春、ホノリアはアッティラに、プラキディアを含む皇族が元老院議員との結婚を強制するので、自分を救い出してほしいと送ったのである。プラキディアの最後の有名な行動は、息子のウァレンティニアヌス3世に、ホノリアを殺すよりも追放するよう説得したことである。450年11月にプラキディアは死去し、451年から453年のアッティラによるイタリア略奪を見ることはなかった。アッティラはホノリアの手紙を「合法的な」要請としたが、略奪はゴート人によるものよりも残虐なものであった。

プラキディアは一生を通じて敬虔なカトリック教徒で、後年にはラヴェンナでいくつかの教会に寄進を行った。ラヴェンナガッラ・プラキディア廟堂は、1996年にユネスコによって世界遺産に登録されている。

参考文献