「堀江景忠」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 小修正
m typo
2行目: 2行目:


== 出自 ==
== 出自 ==
堀江氏は[[越前国]][[坂井郡]]の有力国人で、河口荘堀江郷(現在の[[芦原市]]堀江十楽周辺)を本拠とした。子孫が伝えるところでは[[利仁]]将軍の末裔であり、[[鎌倉時代]]から同地に土着したというが定かではない。ただし、確実な史料からは[[応永]]3年([[1398年]])に[[興福寺]]の配下として活動した人物として、堀江賢光の名前が見える。その後堀江氏は興福寺から離反し、守護である[[斯波氏]]の配下として[[三国湊]]の代官などを務めるなど大きな勢力を誇るが、斯波氏とから守護代の[[甲斐氏]]の争いの中で没落し、傍流がその後越前に勃興した朝倉氏に仕えることとなったと考えられている。朝倉氏のもとで堀江氏は有力な国衆の一人として一乗谷内にも屋敷を持ち(『一乗谷古絵図』)、坂井郡三国湊の舟奉行を勤めるなど重用されている。
堀江氏は[[越前国]][[坂井郡]]の有力国人で、河口荘堀江郷(現在の[[あわら市]]周辺)を本拠とした。子孫が伝えるところでは[[利仁]]将軍の末裔であり、[[鎌倉時代]]から同地に土着したというが定かではない。ただし、確実な史料からは[[応永]]3年([[1398年]])に[[興福寺]]の配下として活動した人物として、堀江賢光の名前が見える。その後堀江氏は興福寺から離反し、守護である[[斯波氏]]の配下として[[三国湊]]の代官などを務めるなど大きな勢力を誇るが、斯波氏とから守護代の[[甲斐氏]]の争いの中で没落し、傍流がその後越前に勃興した朝倉氏に仕えることとなったと考えられている。朝倉氏のもとで堀江氏は有力な国衆の一人として一乗谷内にも屋敷を持ち(『一乗谷古絵図』)、坂井郡三国湊の舟奉行を勤めるなど重用されている。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
10行目: 10行目:
[[永禄]]7年([[1564年]])に朝倉軍は加賀へ再度侵攻し、翌年、翌々年も[[一向一揆]]勢との合戦が続いたが、この最中、景忠は息子である堀江利茂と共に一向一揆に通じ、[[朝倉義景]]に対し謀叛を企てた。
[[永禄]]7年([[1564年]])に朝倉軍は加賀へ再度侵攻し、翌年、翌々年も[[一向一揆]]勢との合戦が続いたが、この最中、景忠は息子である堀江利茂と共に一向一揆に通じ、[[朝倉義景]]に対し謀叛を企てた。


[[永禄]]10年([[1567年]])3月、堀江氏謀叛が噂にのぼると、3月12日、一向一揆勢が加賀から越前へ来襲し朝倉軍と激戦を繰り広げた。一方、堀江氏の館(芦原市下番)には3月18日に[[魚住景固]]・[[山崎吉家]]が大将として出陣、激しく攻め立てたが、容易に勝敗がつかず、結局、堀江父子を能登に亡命させることで事件の決着を見た。なお、[[朝倉景鏡]]の讒言により景忠父子が失脚させられたという説は、事前に一向一揆の攻撃が始まっていること、亡命後の景忠に対し[[顕如]]から感状が出されていることから疑わしいと言わざるを得ない。
[[永禄]]10年([[1567年]])3月、堀江氏謀叛が噂にのぼると、3月12日、一向一揆勢が加賀から越前へ来襲し朝倉軍と激戦を繰り広げた。一方、堀江氏の館(あわら市下番)には3月18日に[[魚住景固]]・[[山崎吉家]]が大将として出陣、激しく攻め立てたが、容易に勝敗がつかず、結局、堀江父子を能登に亡命させることで事件の決着を見た。なお、[[朝倉景鏡]]の讒言により景忠父子が失脚させられたという説は、事前に一向一揆の攻撃が始まっていること、亡命後の景忠に対し[[顕如]]から感状が出されていることから疑わしいと言わざるを得ない。


その後、景忠は'''幸岩斎藤秀'''と改名し、朝倉氏滅亡後、一向一揆が支配するところとなった越前に舞い戻り、杉津砦の守将をまかされるが、織田勢に寝返り、一揆勢を壊滅させた。
その後、景忠は'''幸岩斎藤秀'''と改名し、朝倉氏滅亡後、一向一揆が支配するところとなった越前に舞い戻り、杉津砦の守将をまかされるが、織田勢に寝返り、一揆勢を壊滅させた。

2007年7月16日 (月) 06:41時点における版

堀江 景忠ほりえ かげただ、生年不詳 - 天正4年(1576年)?)は朝倉氏の家臣。堀江景用(ほりえかげもち)の子。中務丞と称す。

出自

堀江氏は越前国坂井郡の有力国人で、河口荘堀江郷(現在のあわら市周辺)を本拠とした。子孫が伝えるところでは利仁将軍の末裔であり、鎌倉時代から同地に土着したというが定かではない。ただし、確実な史料からは応永3年(1398年)に興福寺の配下として活動した人物として、堀江賢光の名前が見える。その後堀江氏は興福寺から離反し、守護である斯波氏の配下として三国湊の代官などを務めるなど大きな勢力を誇るが、斯波氏とから守護代の甲斐氏の争いの中で没落し、傍流がその後越前に勃興した朝倉氏に仕えることとなったと考えられている。朝倉氏のもとで堀江氏は有力な国衆の一人として一乗谷内にも屋敷を持ち(『一乗谷古絵図』)、坂井郡三国湊の舟奉行を勤めるなど重用されている。

生涯

景忠の生年は明らかではないが、弘治元年(1555年)の朝倉宗滴を総大将とする加賀一向一揆攻めに従軍、戦功をあげたことが見える。

永禄7年(1564年)に朝倉軍は加賀へ再度侵攻し、翌年、翌々年も一向一揆勢との合戦が続いたが、この最中、景忠は息子である堀江利茂と共に一向一揆に通じ、朝倉義景に対し謀叛を企てた。

永禄10年(1567年)3月、堀江氏謀叛が噂にのぼると、3月12日、一向一揆勢が加賀から越前へ来襲し朝倉軍と激戦を繰り広げた。一方、堀江氏の館(あわら市下番)には3月18日に魚住景固山崎吉家が大将として出陣、激しく攻め立てたが、容易に勝敗がつかず、結局、堀江父子を能登に亡命させることで事件の決着を見た。なお、朝倉景鏡の讒言により景忠父子が失脚させられたという説は、事前に一向一揆の攻撃が始まっていること、亡命後の景忠に対し顕如から感状が出されていることから疑わしいと言わざるを得ない。

その後、景忠は幸岩斎藤秀と改名し、朝倉氏滅亡後、一向一揆が支配するところとなった越前に舞い戻り、杉津砦の守将をまかされるが、織田勢に寝返り、一揆勢を壊滅させた。

織田信長は藤秀の戦功を賞して、息子の利茂に加賀大聖寺の所領を与えた。しかし、藤秀は恩賞に不満をもっていたらしく、それが信長の耳に入り天正4年(1576年)4月に誅殺されたという(異説あり)。