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2007年2月24日 (土) 19:31時点における版
中院 通方(なかのいん みちかた、文治5年(1189年)-暦仁元年12月28日(1239年2月3日))は、鎌倉時代初期の公卿。源通親の子、母は藤原範兼の娘・範子。中院家の祖とされている。別名:土御門通方。
6歳で従五位下を授けられ、翌年には父の知行国であった因幡国が与えられる。建暦元年(1211年)に蔵人頭となって翌年に公卿に列した。以後、参議・検非違使別当・権中納言を歴任するが、承久の乱後恐懼処分を受けて謹慎した。乱後は姉の承明門院とその孫邦仁王(土御門天皇の子、後の後嵯峨天皇)を後見した。
安貞元年(1227年)中納言となり、2年後に権大納言に転じる。その間に宮廷行事における服装などの有職故実についてまとめた『飾抄』を著した。暦仁元年(1238年)大納言に昇ったものの、間もなく病で倒れ、その年の暮れに50歳の生涯を閉じた。