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2007年2月22日 (木) 19:03時点における版

奥野 定良(おくの さだよし(将監(しょうげん))、正保4年(1647年) - 享保12年5月22日1727年7月10日))は播州赤穂藩士。組頭1000石。

父は家老奥野将監定次。母は大石信云の娘奈津。したがって47士の大石瀬左衛門とは従兄弟の関係である。

元禄14年(1701年)3月、江戸城松之大廊下で主君浅野内匠頭吉良上野介に刃傷におよび、浅野内匠頭は切腹。赤穂藩は改易となった。 赤穂城明け渡しに際して、家老大野九郎兵衛が逐電してしまったために、代わりに大石内蔵助を補佐して明け渡しを行った。

奥野将監は大石内蔵助の義盟に加わり、御家再興運動では大石の右腕となり助けた。元禄15年(1702年)7月、浅野内匠頭の弟浅野大学広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的になると京都円山の会議で大石は吉良上野介への仇討ちを決定するが、その直後に奥野は脱盟してしまった。

奥野は一党の中では大石に次いで禄が高く、討ち入り後に細川家にお預けとなった大石は奥野の脱盟を大変に残念がっている。この脱盟については大石が吉良を打ち洩らした際に備えた二番手だったとも浅野長矩の隠し子の姫を育てるためだったとも言われるが真相は不明である。

その後は播磨に戻って、一女が嫁いでいた加西の下道山の磯崎神社神宮寺秀経に身を寄せて、名も右衛門と改めて新田開発に尽力した。また晩年には播磨国多可郡中町の延明寺に移り隠棲したといわれ、その地の糀屋村に将監のものといわれる墓が存在する。この墓によれば、法号玄徳院節厳禅義居士。この法号は磯崎神社に残る神宮寺過去帳と一致し、これによると1727年(享保12年)5月22日に死去したとある。享年82。

司馬遼太郎の小説『新選組血風録』では新選組隊士山崎烝を奥野将監の子孫として描いているが、これはフィクションである。

なお奥野の組に属していた藩士のうちからは潮田又之丞高教・木村岡右衛門貞行が吉良邸討ち入りに加わった。

関連項目