出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年2月20日 (火) 17:00時点における版
一色義定(いっしきよしさだ、永禄元年(1558年) - 天正10年9月8日(1582年9月24日))は一色氏の当主。一色義道の子、別名義有・義俊・満信。
剛勇に優れた猛将で、父の義道と共に織田信長軍の侵攻を退けていたという。しかし1579年、父が味方の裏切りによって殺されると、家督を継いで一色氏の残党を率い、弓木城で徹底抗戦する。
このため明智光秀は、細川藤孝の娘を義定に娶わせることで和議を結んだ。その後は信長に仕え、1581年の京都御馬揃えにも出席している。しかし1582年の本能寺の変後、義父の藤孝に宮津城に招かれて殺害された。