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河原村伝兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
河原村伝兵衛
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 川原伝兵衛
主君 山県昌景
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河原村 伝兵衛(かわらむら でんべえ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の重臣である山県氏の家臣。姓は川原とも。

略歴

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武田信玄の重臣・山県昌景配下。 『甲陽軍鑑』巻十八では、三河国浪人であった伝兵衛が伊豆における合戦で活躍し、褒美として熨斗付きの腰物とともに信玄自ら三すくいの碁石金を与えられたという逸話が記されている。この逸話には年代が記されていないが、元亀元年(1570年)の伊豆国韮山城攻めである可能性が考えられている[1]

又、其十日の間に、伊豆いたづまにおひて、北条家のはが伯耆・かさ原、両侍大将と、信玄家の侍大将山形、一手にて合戦の時、くび四百卅、甲州方へうつとる、北条家の家老こと々くはいぐんなり、其節、辻弥兵衛・和田賀介、鑓をあわする、鑓下の高名、川手豊左右問・長坂宮内左右衛問、其八日めに信玄公、伊豆にら山へ取リつめ、あたりの在郷ほうくわのとき、にら山城のおさへに山形三郎平衛罷有ル城より、備をいだしてせめあひあり、此節山形衆、余リにきおいかゝつておしこむ故、引取ル事なりかぬる、敵出てくいとむる時、三川牢人にかわら村伝兵衛、白キ四方に船のせんの字を黒ク書キてさし物にして、かやして鑓をあわせ、敵をおしちらし、のくほどに、六度まで鑓をあわする、「かの伝兵衛がふるまひは、信玄家にてもあまり多クあるまじい」とて、信玄公のたまふハ、「賞功不踰時ヲ」とありて、則伝兵衛をめしいだされ、御さかづきをたまハり、のしつけの御し物くだされて後、とういのはうびとして、ごいし金を、信玄公のぢしん両の手にてすくい被成、三すくひ彼かわら村伝兵衛に被下、かやうのはたらき、他所にてハ、高天神小笠原与八郎内の林平六と申ス武士、遠州づだいじと云所にて、日のうちに六度の鑓をあわすると、此かわら村と、近代にはなはだ以のはたらきなり、 — 『甲陽軍鑑』巻十八

脚注

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  1. ^ 海老沼(2013)、p.38(63)

出典

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  • 海老沼真治「『甲陽軍鑑』における金の使用事例」『山梨県立博物館 研究紀要 第7集』山梨県立博物館、2013年

関連作品

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風林火山(2007年、NHK大河ドラマ、演:有薗芳記