水府森家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

水府森家(すいふもりけ)は、徳川光圀に採り立てられた森尚謙に始まる、水戸藩儒学者の家系である。「水府」は水戸を漢風に呼んだ異称である。その屋敷から厳塾とも呼ばれ、代々藩主の顧問として、医師、史官、侍講、秘書懸などを勤めた。家禄200石15人扶持中士(同じ200石ながら、家格として、後に水戸史館に入る立原家、藤田家に先んじる)。同藩における『大日本史』の編纂事業にその当初から携わり、その天皇一系の紀伝体の基調を形作り、公武合体を持論としつつも、藩内外の尊皇攘夷派と交流して、明治維新の起点を作った。

幕末において、保守的な立原家と革命的な藤田家が激しく対立する中、藩主側近の江戸秘書懸として藩内両派の仲裁に努め、天狗党の乱およびその後の事態を収拾し、戊辰戦争においても尊皇攘夷派との連携を図り、かろうじて水戸藩の命脈を保った。維新後も愛書家、史学者、芸術家として、その家風を引き継いでいる。

水府森家(厳塾)[編集]

資料[編集]

  • 水戸彰考館『水府系纂』第四八巻「貞享年中奉仕輩累系」
  • 柴田光彦『翻刻博画堂漫録』序文「昭和53年3月刊 早稲田大学図書館紀要第19号抜刷」

脚注[編集]