枡木屋の獄

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桝木屋浜と橋口町の牢屋 福岡藩の牢屋は、西中島橋の福岡側の入口にあたる福岡橋口町(現・福岡市中央区天神4丁目、勝立寺脇)にあって、橋口町獄屋と呼ばれた。 町は戦後に昭和通りとなり、町の大半が消滅したが、橋口町だった西中島橋の福岡側の一角には、明治42年(1909)2月竣工し、昭和44年国の重要文化財に指定された赤煉瓦文化館(福岡市文学館)が建っている。

橋口町に関して、「JLogos」角川日本地名大辞典「元牢屋町(近世)」には次のような解説が掲載されている。 “江戸期~明治5年の町名江戸期は福岡城下の1町那珂川河口左岸,城下の東端に位置するもとは橋口町の一部で牢屋町と通称していたが,安政6年牢獄が桝木屋町に移転し,跡地が武家屋敷となるにともなって橋口町から分かれて当町が成立した町名は,福岡藩の牢獄の跡地に起立した町であることに由来する。明治5年橋口町の一部となる...”

安政6年、橋口町獄舎が移転した先は、現在の福岡市中央区唐人町の海側にあった旧桝木屋(ますごや)町で、桝木屋獄と呼ばれた。

『古地図の中の福岡・博多』の内容を、備忘のためtwitterに投稿したというログを拝見すると、“唐人町の北西部は枡小屋ノ町。枡小屋とは年貢や酒などを計量するための公定枡を作るところ。安政6年(1859)にはここに囚獄舎が建てられ、慶応元年(1865)の「乙丑の獄」と呼ばれる藩内政変では14人がここで処刑された。その後、明治期に荒津病院、現在は子ども病院。”とあり、桝木屋獄が置かれた場所は現在の唐人町2丁目ということになる。

乙丑の獄で捕らえられた福岡勤皇派14名は、桝木屋獄に入れられた後、獄舎から近い博多湾に面した伊勢津の浜辺で処刑場されている。因みに、前出の『七隈史学 第13号』所収の論文「福岡藩における刑罰」には、福岡藩でも安政2年に徒罪が導入され、受刑者を収容する徒罪場が“舛木屋街”に作られたと記載されている。

『福岡県警察史 明治大正編』「藩政時代の刑罰」には、藩の揚屋が地行浜と伊崎にあったと紹介しており、さらに”「石城志」によれば慶長六年頃、須崎浜にあったと記録されている”と記事を引用紹介している。

白石壽郎著『「萬年代記帳」に見る福岡藩直方領犯科覚帖』には、”桝木屋浜は武士の牢屋、橋口町は一般領民の牢屋であった”と解説している。この解説に基づけば、江戸時代の早い時期から福岡藩は桝木屋浜と橋口町に武士用と一般領民用の牢屋が併設されていて、幕末になって両者が桝木屋浜に統合されたことになる。同書では橋口町牢と在方に設置された郡牢との関係について木屋瀬牢を例に

かなりの重罪犯でほとんどの犯人は郡牢の木屋瀬牢に一時収監され、詮議の上橋口牢に入牢させられることが多かった

とし、橋口牢に移送されるのは「木屋瀬郡牢の権限を超える」犯罪人であったとしている。