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朝倉景高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
朝倉 景高
時代 戦国時代
生誕 明応4年(1495年
死没 不明
別名 孫八郎、次郎左衛門(通称)
戒名 英岩宗傑
官位 右衛門大夫右兵衛尉、越前国大野郡
主君 朝倉孝景
氏族 朝倉氏
父母 朝倉貞景
兄弟 孝景景高景郡景紀道郷景延
大成明玉、北殿、南陽尼寺良玉侍者、
土岐頼武室、鞍谷氏室
烏丸冬光
景鏡景次存重
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朝倉 景高(あさくら かげたか)は、戦国時代武将越前国朝倉氏の一族。朝倉氏10代当主・朝倉孝景の弟。権中納言烏丸冬光の娘を妾としており、子の景鏡はその間に生まれたという。

略歴

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9代当主・朝倉貞景の次男として誕生。

永正16年(1519年)7月、兵3千を率いて美濃国に出陣、土岐頼芸を擁す斎藤彦四郎の勢力と合戦、9月14日の正木合戦、10月10日の池戸合戦に連戦連勝、土岐頼武の守護職就任に貢献した。大永7年(1527年)頃から大野郡司を務める。天文5年(1536年)、美濃の混乱(土岐頼武と土岐頼芸の守護職争い)に関与し大野郡穴間城を攻略。

しかし、この頃から兄・孝景と不和になり[1]、大野郡司を罷免される。天文9年(1540年)8月上洛し、公家衆や幕府要人に接近、孝景に謀反を企てたが失敗し、翌月、京を追放された(楊弓会事件)。

その後、景高は若狭武田氏の許に身を寄せ、尾張国斯波氏本願寺と連携し越前侵攻の機を窺ったが、結局、天文12年(1543年)4月、若狭を退き、和泉国堺湊から西国に没落した。

系譜

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脚注

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  1. ^ 父の遺領をめぐる争いがあったと伝わる。