朝倉景高
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 明応4年(1495年) |
死没 | 不明 |
別名 | 孫八郎、次郎左衛門(通称) |
戒名 | 英岩宗傑 |
官位 | 右衛門大夫、右兵衛尉、越前国大野郡司 |
主君 | 朝倉孝景 |
氏族 | 朝倉氏 |
父母 | 朝倉貞景 |
兄弟 |
孝景、景高、景郡、景紀、道郷、景延、 大成明玉、北殿、南陽尼寺良玉侍者、 土岐頼武室、鞍谷氏室 |
妻 | 烏丸冬光娘 |
子 | 景鏡、景次、存重 |
朝倉 景高(あさくら かげたか)は、戦国時代の武将。越前国朝倉氏の一族。朝倉氏10代当主・朝倉孝景の弟。権中納言・烏丸冬光の娘を妾としており、子の景鏡はその間に生まれたという。
略歴
[編集]9代当主・朝倉貞景の次男として誕生。
永正16年(1519年)7月、兵3千を率いて美濃国に出陣、土岐頼芸を擁す斎藤彦四郎の勢力と合戦、9月14日の正木合戦、10月10日の池戸合戦に連戦連勝、土岐頼武の守護職就任に貢献した。大永7年(1527年)頃から大野郡司を務める。天文5年(1536年)、美濃の混乱(土岐頼武と土岐頼芸の守護職争い)に関与し大野郡穴間城を攻略。
しかし、この頃から兄・孝景と不和になり[1]、大野郡司を罷免される。天文9年(1540年)8月上洛し、公家衆や幕府要人に接近、孝景に謀反を企てたが失敗し、翌月、京を追放された(楊弓会事件)。
その後、景高は若狭武田氏の許に身を寄せ、尾張国の斯波氏や本願寺と連携し越前侵攻の機を窺ったが、結局、天文12年(1543年)4月、若狭を退き、和泉国堺湊から西国に没落した。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 父の遺領をめぐる争いがあったと伝わる。