曹承宗
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曹承宗 | |
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『省政彙覧』第8輯 奉天省篇(1936年) | |
プロフィール | |
出生: | 1900年(光緒26年)[1][2][3] |
死去: |
1945年12月 中国共産党解放区安東省自治政府[4] |
出身地: | 清盛京将軍管轄区木蘭県[1][2] |
職業: | 官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 曹承宗 |
簡体字: | 曹承宗 |
拼音: | Cáo Chéngzōng |
ラテン字: | Ts'ao Ch'eng-tsung |
和名表記: | そう しょうそう |
発音転記: | ツァオ・チョンツォン |
曹 承宗(そう しょうそう、1900年 – 1945年)は中華民国・満洲国の官僚。
事績
[編集]日本へ留学し、慶應義塾大学理財科と鉄道省立鉄道行政専科を卒業した。帰国後は奉海鉄路車務処運転科長、奉天交渉署第二科長、東北憲兵司令部秘書、遼寧省政府諮議を歴任した[1][2]。
満洲国建国に際しては奉天省政府諮議となり、1934年(康徳元年)に同省実業庁長となる[1]。1940年(康徳7年)1月に地籍整理局長となり、翌月、地政総局長に改任された[3]。1942年(康徳9年)9月28日、安東省長に起用され[5]、満洲国崩壊までこの地位にあった。
1945年8月に満洲国崩壊した後は、国務総理大臣だった張景恵の呼びかけに応じ、「安東省地区治安維持会」を創設して蔣介石国民政府(中国国民党)との連携を図った[6]。しかし、同年11月に中国共産党が旧・安東省に進駐して安東省自治政府を創設すると、治安維持会は解散され、曹承宗は元・安東省次長の渡辺蘭次と共に逮捕されてしまう[4]。
同年12月、曹承宗は人民裁判にかけられ、漢奸と国民党への加担とを罪状にして銃殺刑に処された。曹、享年46。渡辺蘭次も同様に、国民党への加担を問われ銃殺刑となった[4]。