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敦平親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
敦平親王
時代 平安時代中期
生誕 長保元年(999年
薨去 永承4年3月18日1049年4月22日
官位 二品式部卿
父母 父:三条天皇、母:藤原娍子
兄弟 敦明親王(小一条院)敦儀親王敦平親王当子内親王禔子内親王性信入道親王禎子内親王
藤原兼隆長女、源則理
敬子女王
養子:敦輔王
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敦平親王(あつひらしんのう)は、三条天皇の第三皇子。官位二品式部卿

経歴

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寛弘8年(1011年)父の三条天皇即位に伴い親王となる[1]。長和2年(1013年)3月、兄敦儀親王と同時に元服し、三品に叙せられる。このとき加冠を右大臣藤原顕光が務め、理髪を蔵人頭藤原朝経が務めた。同年6月兵部卿に任ぜられる。長和年間から寛仁年間(1017年-1021年)まで大宰帥に在任していた。治安3年(1023年)頃に叔父の参議藤原通任の邸宅に居住していたが、起居の場として東廊を宛がわれており[2]、居候的な立場にあった。

万寿4年(1027年)、兄敦儀親王を飛び越えて二品に昇叙され、事実上の王氏長者になる。この異例の人事には、藤原道長頼通父子の意向が反映されていたと考えられる。万寿2年(1025年)頃に敦平親王は中納言藤原兼隆の娘と結婚したが、当時、道長の娘威子後一条天皇中宮)は兼隆の邸宅を御在所にしており、敦平親王も婿として兼隆邸にいたからである。その後兼隆の奔走により王氏爵を推挙する権利を得たという[3]

長元4年(1031年)正月の王氏爵において、前大宰大弐藤原惟憲の陰謀により大蔵光高を「良国王」と偽って推挙してしまう。一旦良国王は従四位下に叙せられるものの、陰謀はたちまち露見し叙位は取り消される[4]。結局3月になって敦平親王は式部卿の職務を停止され、藤原惟憲は参内を禁じられている[5]。なお、同年9月には敦平親王の職務停止は解除された[6]

永承4年(1049年)3月18日薨去享年51。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『権記』寛弘8年10月5日条
  2. ^ 『小右記』治安3年閏9月29日条
  3. ^ 『小右記』万寿4年正月5日条
  4. ^ 『小右記』長元4年正月5日,正月6日,3月1日条
  5. ^ 『日本紀略』長元4年3月14日条
  6. ^ 『小右記』長元4年9月5日条
  7. ^ 『大鏡』第三巻,右大臣道兼

参考文献

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