藤原惟憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

藤原 惟憲(ふじわら の これのり、応和3年(963年) - 長元6年3月26日1033年4月27日)は、平安時代中期の公卿藤原北家勧修寺流駿河守藤原惟孝の長男。官位正三位大宰大弐

経歴[編集]

近江掾を経て、寛和元年(985年従五位下叙爵大蔵大輔を経て、長保3年(1001年因幡守として地方官に転じる。任期中には備蓄が尽きていた不動穀に再び8000石を備えさせるなど[1]、同国の国力を回復させたと評価される[2]。寛弘2年(1005年)に任期を終えるが、後任の橘行平から不動穀備蓄の実態がない事を理由に解由状を得られないまま帰京する。結局、左大臣藤原道長に対応を頼み込み、後付けで国府の倉庫に大量の稲穀を運び入れるなどの策を弄した結果、朝廷から行平に対して解由状出状の命令を出させることに成功し、同年12月にようやく解由状を得ることができた[3]。その後も、寛弘3年(1006年甲斐守と一条朝中盤以降は地方官を歴任し、この間寛弘4年(1007年従四位下、寛弘8年(1011年)従四位上と順調に昇進する。

その後は長和2年(1013年正四位下近江守、寛仁4年(1020年播磨守大国国守を務める一方、藤原道長家司として信頼が厚く、寛仁元年(1017年)敦良親王(後の後朱雀天皇)が道長の外孫として初めて皇太子に立つと、その春宮亮に任ぜられている。

また、国司として蓄えた財力をもって、京内の一等地である藤原道長の土御門第の西隣に邸宅を構える。長和5年(1016年)自邸から出火し土御門第や法興院[要曖昧さ回避]など多くの家屋が焼失したが、その再建の造営責任者となる。寛仁2年(1018年)に惟憲の邸宅と同時に再建を完了させるが、土御門第と同じ日に惟憲邸の移徙を行ったことから、世人の不審を買ったという。

治安3年(1023年従三位大宰大弐に叙任されて大宰府に赴任し、翌万寿元年(1024年)には赴任の労により正三位に昇叙された。長元2年(1029年)大宰大監・平季基大隅国で国府を焼き討ちにするなど大規模な反乱を起こした際、惟憲は季基に対して3000余疋を賄賂として要求して受け取り、勝手に反乱の罪を赦してしまう。その後、朝廷から大宰府に対して作成された季基を捕縛すべき旨の命令書について、惟憲は書類作成手続きの不備を理由に再作成を強く要求し、結局命令書は大宰府に届くことはなかった[4]。同年に大弐の任を終えて帰京した際には、九州一円から略奪、あるいは外国からの交易船から接収した、数え切れないほどの財宝を随身が携えて帰京したという[5]

長元4年(1031年)正月の王氏爵において、大蔵光高のことを宇多天皇の後裔の「良国王」と偽って、王氏爵の権限を持つ敦平親王に推挙させる。一旦、良国王は従四位下に叙せられるものの、陰謀はたちまち露見し叙位は取り消されてしまう[6]。まもなく敦平親王に対する事情聴取が行われることになり、惟憲が激しく狼狽しているとの噂が立ったことや、王氏爵にも関わった関白藤原頼通が惟憲を嫌って既に70歳近いのでいい加減に出家して隠居すれば良いと言った、との話が伝わっている[7]。結局3月になって敦平親王は式部卿の職務を停止され、惟憲は参内を禁じられた[8]

長元6年(1033年)3月26日薨去享年71。

人物[編集]

藤原実資からは『小右記』にて、貪欲である上に善悪を弁えていなかったと評された[7]また、藤原道長の側近であり、三条天皇には強圧的に望んでいる。その一方で赴任先では賄賂を受け取りながらも税を低くするなど、政治手腕は確かだったとしている[要出典]

官歴[編集]

公卿補任』による。

系譜[編集]

尊卑分脈』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『御堂関白記』寛弘3年正月6日条
  2. ^ 『平松文書』寛弘2年4月14日条
  3. ^ 『御堂関白記』寛弘2年12月29日条
  4. ^ 『小右記』長元2年9月5日条
  5. ^ 『小右記』長元2年7月11日条
  6. ^ 『小右記』長元4年正月5日,正月6日,3月1日条
  7. ^ a b 『小右記』長元4年正月16日条
  8. ^ 『日本紀略』長元4年3月14日条
  9. ^ 『公卿補任』

参考文献[編集]

  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年
  • 『世界大百科事典 第2版』平凡社、2005年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年