山梨清松

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山梨 清松(やまなし せいしょう、1928年6月8日 - 2015年2月10日)は、日本建築家。(株)綜合設計事務所 代表取締役会長[1]。(社)日本建築士会連合会理事、副会長、顧問。(社)日本建築家協会理事。静岡県建築士会会長。(財)静岡県建築住宅まちづくりセンター理事長[2]。日本大学(非常勤講師)等を歴任した。

人物[編集]

山梨が設計した銀三ビル(1969年竣工)
山梨が設計した銀三ビル(右)(1969年竣工)

日本大学理工学部卒業(1952年)、卒業設計「空港の設計」卒論「明治以降の構造の変遷史」、東京大学大学院建築学科博士課程修了(1957年)、丹下健三研究室所属(大学院の同期は槙文彦神谷宏冶))。

丹下研究室(1952~57年)では、図書印刷原町工場、丹下健三自邸などの設計に参画した。

山梨が丹下健三自邸の基本設計を担当したことについては、藤森照信が「X-Knowledge HOME特別編集no.5(2005年8月発行エクスナレッジ)に、『丹下健三自邸の謎』p38-43という論文が掲載されている。また、藤森は、この論文のなかで、当時の「新建築」に山梨の設計として掲載された『浦和の家』は、丹下健三の作品の一つだとする説を書いている。)[3]

本阿弥清が、この論文を踏まえて山梨氏本人に聞き取り調査を行ったところ「『浦和の家』は、東大大学院時代に丹下先生から設計を任された。施主は、丹下さんの知人で東大の筒井先生(物理学)の自邸。ガラス面を多用した作品で、湯船をタイルで全面を張り保温効果を保ったもの。プランは自分がやったが、自分は学生のレベルであり丹下さんが指導してくれた。当然、現場にも同行した。丹下さんと共同で設計したといえばそうなる」(※静岡市内の「綜合設計事務所」5階会長室にて聞き取り調査を実施 2010年5月2日 )」[3][4]

その後、1965年に独立。山梨建築事務所、綜合計画・建築・設計事務所、綜合設計事務所、㈱綜合設計事務所と名称変更。静岡県を活動拠点に建築の他都市計画や公園・環境設計なども手掛ける。

約47年間で設計事務所としてかかわったプロジェクト(仕事)は、国内外にわたる建築設計1,000、都市計画900、公園・環境設計200であった。 代表作に浦和の家(丹下健三研究室時代)[5]。清水市防災建築街区[6]。「泉の郷」[7]で静岡県都市景観賞[8]。磐南聖苑、清水市市民文化会館で中部建築賞などがある。

参考[編集]