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小菅城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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小菅城
岡山県
小菅城跡の碑。左手の小径を登った先が二の丸、碑の上方が本丸。
小菅城跡の碑。左手の小径を登った先が二の丸、碑の上方が本丸。
別名 小菅山城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主那須宗晴
築城年鎌倉時代初期
主な城主 荏原那須氏
廃城年 不明
遺構 曲輪堀切
指定文化財 未指定
位置 北緯34度37分39.7秒 東経133度29分08.2秒 / 北緯34.627694度 東経133.485611度 / 34.627694; 133.485611座標: 北緯34度37分39.7秒 東経133度29分08.2秒 / 北緯34.627694度 東経133.485611度 / 34.627694; 133.485611
地図
小菅城の位置(岡山県内)
小菅城
小菅城
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小菅城(こすげじょう[1])は、備中国荏原郷(岡山県井原市西江原町賀山)にあった日本の城[2]鎌倉時代に荏原那須氏(備中那須氏)が居城とした。

沿革

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那須与一屋島の戦いにおいて扇の的を射落とした功の恩賞として備中国荏原郷を与えられたとされる[3]。与一は荏原郷に入ることなく山城国で亡くなり、代わりに弟の那須宗晴が下向して小菅城を築城したと伝わる。宗晴は小菅城を築城したのち本貫である下野国に戻ったが、那須頼資の三男朝資が小菅城に入って荏原三郎朝資と名乗り、以後荏原那須氏の居城とした。井原市青野町1705には市指定有形文化財の「伝那須一族の墓」があり、宝篋印塔五輪塔が遺されている[3]

のちに那須弘隆の次男光隆が中堀城を築き、弘隆の長男資泰もそちらへ移ると小菅城は廃城となったという[4]

現在では小菅城址の碑が置かれているものの、礎石なども見当たらず木が生い茂るばかりとなっている[5]

ギャラリー

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出典

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  1. ^ 「後月郡村様子書」(『井原史料』所収)
  2. ^ 「小菅城址」井原市公式HP
  3. ^ a b 「石造美術-伝那須一族の墓-」井原市文化財センター古代まほろば館公式HP
  4. ^ 城郭放浪記 - 備中 小菅城”. 2020年6月21日閲覧。
  5. ^ 小菅城址”. 井原市観光協会. 2020年6月21日閲覧。