小畠武堯

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小畠 武堯(おばたけ たけたか、? - 享保18年(1733年)は、江戸時代伊勢崎藩士。通称は一之丞。農業用水である八坂用水(やさかようすい)の開削を指導した治水家である。

生涯と業績[編集]

生年は不明。上野国伊勢崎藩の藩士の家に生まれる。第二代藩主酒井忠告に仕えた。当時伊勢崎藩では、農業用水の不足から大規模な用水路の開削を決定し、武堯はその事業の責任者に任命された。宝永2年(1705年)に江戸表から国許へ移動となり、郡奉行として本格的に事業の指揮を執り始める。その中で、まず問題にあがったのが水源の確保であった。取水予定地が、隣藩である前橋藩の河川であったため交渉が難航し、一説では武堯みずから部下を率いて夜中に前橋領内へ侵入し、測量を行ったといわれている。しかし、これはあくまで伝承であり、おそらくは事務的な折衝を粘り強く進めたものとみられる。そして、本事業における彼の最大の功績といわれるものが、八坂大樋(やさかおおとい)の建設であった。開削の経路を阻むように河川が流れていたため、これを越えて用水を引くことが最大の課題であった。これに対し、武堯は(とい)を架けることで問題を解決し、難工事の末に全長70メートルにも及ぶ屋根付きの八坂大樋を完成させた。その後宝永3年(1706年)に用水の全工事が完了する。通水当日には、武堯は菩提寺である善應寺(伊勢崎市)の本堂において死に装束を着て待機し、通水が失敗した場合は自害して責任をとろうと覚悟する。結果、通水は無事成功し、使者より報告を受けた武堯は、喜びのあまり死に装束のままその場で古舞を一曲舞ったと伝えられている。この用水路は八坂用水と名づけられ、四百町歩にわたる農地を潤し、一部は現在に至るまで使用され続けている。その後、武堯は享保18年(1733年)に病没。大正7年(1918年)には、その多大な功績から従五位を追贈された。

関連史跡[編集]

外部リンク[編集]