奥田忠次

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奥田 忠次
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正2年(1574年
死没 慶長20年5月6日1615年6月2日
別名 三郎右衛門
主君 徳川秀忠
氏族 奥田氏
父母 父:奥田忠高
兄弟 彦三郎、勘兵衛、直高、忠次、喜左衛門、助左衛門、九郎右衛門
土橋右近の娘
奥田忠一
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奥田 忠次(おくだ ただつぐ)は、江戸時代の武将。奥田忠高の息子。通称は三郎右衛門。

父・忠高が慶長6年(1601年)に死去した後に奥田家(2,800石)の家督を継ぐ。慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣道明寺の戦い水野勝成が率いる幕府軍の一部隊として後藤基次が率いる大坂方の部隊と交戦したが、基次に討ち取られた。享年42[1]

なお、戦後に忠次の功績を加味して奥田家は500石の加増を受けた。

脚注[編集]

  1. ^ 寛政重修諸家譜』巻第九百四十五

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