呂鮪

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呂 鮪(りょ い、生没年不詳)は、中国代から後漢時代初期にかけての武将。雍州扶風陳倉県の人。

姓名 呂鮪
時代 代 - 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 雍州扶風陳倉県
職官 〔不詳〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 〔独立勢力〕→公孫述
家族・一族 〔不詳〕

事跡[編集]

三輔に割拠していた新末後漢初の群雄の一人。関中の豪傑として名が知られていた。

更始帝赤眉軍が敗北した後、呂鮪は地元の陳倉(右扶風)に割拠し、関中の他の群雄と抗争する[1]。しかし、呂鮪を含めた関中の群雄は、次第にその多くが蜀(成家)の公孫述の陣営に加わった。公孫述は呂鮪らを将軍に任命すると、要塞を建造させ、軍を布陣させ、戦闘・射撃を練習させた。また、漢中に糧食を蓄積させ、南鄭(漢中郡)には宮殿を築造させている。

建武3年(27年)、公孫述の部将の李育・程烏が数万の軍勢を率いて陳倉に到着し、呂鮪はこれらと共に三輔を攻撃した。しかし隴西の隗囂の援軍を得た漢の征西大将軍馮異の追討を受け、呂鮪らは陳倉で敗北し、漢中へ撤退した。この時、呂鮪・張邯・蔣震以外の関中の群雄は、残らず馮異に平定されている。建武4年(28年)、呂鮪は公孫述の部将の程烏の援軍を受け、再度陳倉へ出撃したが、馮異と趙匡に迎撃され敗退した。

その後時期は不明だが、呂鮪は入蜀し、建武11年(35年)秋に、同僚の延岑王元・公孫恢と共に広漢(広漢郡)・資中(犍為郡)で漢軍の岑彭を迎撃した。しかし岑彭は奇襲作戦で呂鮪らの後背地である武陽(犍為郡)を奪取し、延岑・呂鮪らも、正面を受け持っていた岑彭の副将の臧宮に沈水で大敗した。

これ以降、呂鮪の名は史書に見えない。

脚注[編集]

  1. ^ 後漢書』馮異伝によると、呂鮪以外で赤眉軍降伏後の関中に割拠した群雄・拠点は、次の通りである。延岑(藍田)・王歆(下邽)・蔣震(覇陵)・張邯(長安)・公孫守(長陵)・楊周(谷口)・角閎(汧)・駱延(盩厔)・任良(鄠)・汝章(槐里)。

参考文献[編集]

  • 後漢書』列伝3隗囂伝、公孫述伝
  • 同列伝7馮異伝、岑彭伝

関連項目[編集]