兒玉愛二郎
(児玉愛二郎から転送)
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天保12年(1841年) |
死没 | 昭和5年(1930年) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 毛利敬親 |
藩 | 長州藩 |
父母 | 父:寺内彌次右衛門道貫 |
兒玉 愛二郎(こだま あいじろう)は、江戸時代後期の長州藩士。長州の俗論党で井上聞多襲撃犯の一人。のちに和解し、新政府に出仕した。
生涯[編集]
実父は寺内彌次右衛門道貫(長州藩大組士、二百十石七斗)。
何らかの形で、児玉家へ養子入り。
長州藩選鋒隊士。
幕府への恭順を主張する佐幕派に属す。
元治元年(1864年)9月25日、袖解橋(現・山口県山口市三和町)近くの路上において、中井栄次郎、周布藤吾らと共にいたところ、井上聞多と遭遇。かねてから井上の思想(武備恭順)を憎んでいた児玉ら一行は、そのまま井上を襲撃して重傷を負わせた。(袖解橋の変)
俗論派の藩政府とともに奇兵隊などと大田絵堂で戦闘。
選鋒隊が解散後、精鋭隊へ入隊。
精鋭隊として幕府の第二次長州征伐で、石州口で戦闘。
戊辰戦争で干城隊士として北越戦に従軍。
維新後、新政府が御親兵を創設する際に、長州藩の近衛兵隊長として東京入り。
この時、長州まで御親兵を迎えに帰郷した井上聞多と面会したが、自身が襲撃犯の一員であることを井上には告白しなかった。
帰郷後、山口藩(県)庁に出仕。
面会後、井上と親しくなり、井上によって新政府に推挙され、明治5年1月、宮内小丞に任官する。
明治天皇の西国行幸に供奉(随幸私記を残す)。
時期不明 宮内権大書記官に任命。
明治15年 宮内省大書記官に任命。
明治22年 宮内省図書頭。
宮内省図書館を辞職。
昭和5年2月13日死去。93歳。
公職 | ||
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先代 九鬼隆一 |
図書頭 1889年 - 1895年 |
次代 杉孫七郎 |
先代 岩倉具定 |
大膳大夫 1888年 - 1889年 |
次代 五辻安仲 |