元行欽

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元 行欽(げん こうきん、? - 926年)は、五代十国時代の武人。後唐李嗣源仮子、また荘宗李存勗の仮子となって、李紹栄を名乗った。

生涯[編集]

幽州の人。初め、桀燕の皇帝劉守光に従い、副将となった。天祐6年[1]909年)、劉守光の兄の劉守文を自ら捕らえた。天祐10年[1]913年)、李存勗軍との戦いで李嗣源と対決し、7度矢を射かけられたが、李嗣源に傷も一つ入れた。元行欽は力尽きて投降したが、李嗣源はその強い意志を感じ、仮子とした。その後、元行欽は李嗣源に従って軍功を重ねた。しかし天祐12年[1]915年)、李存勗は仮兄弟らの軍で武功の優れた者を求め、李嗣源はやむなく要求により元行欽を遣じた。

その後、元行欽は李存勗の仮子となり、李紹栄と改名した。李存勗は武芸に優れ、格闘を大いに好み、常に敵軍と直接対戦した。天祐16年[1]919年)、李存勗は単独行動をとって後梁の軍士との戦闘に敗れ、李紹栄に救援された。李存勗は「富貴は君と共に楽しもう」と感謝をした。

李存勗が後唐の皇帝(荘宗)として即位すると、同平章事に任じられた。同光3年(925年)、李紹栄は妻と死別したので、荘宗は李紹栄のため美女を求めさせた。その頃、荘宗の妃嬪の一人が男子を産んで、皇后劉氏に嫉妬された。皇后はみなの前で荘宗に口添えして、その妃嬪が李紹栄に妻として与えられた。

しばらくすると、荘宗は酒色に溺れて政務を顧みなくなった。各地で反乱が大規模に発展し、同光4年(926年)にはその鎮圧に向かわせた李嗣源が逆に皇帝に擁立された。荘宗は仮子の李従璟(李従審、李嗣源の実子)を李嗣源に差し向けようとしたが、李紹栄は諫止した。李従璟は処刑された。

李嗣源(明宗)が荘宗に取って代わると、李紹栄は逃亡を企てたがその途上の平陸で逮捕された。明宗が「私に何の落ち度があって、お前は我が子を殺したのか」と責め罵ると、李紹栄は「先帝は何の落ち度がお前にあったのか」と応じた。李紹栄は処刑された。

伝記資料[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 後梁に従わず自立した政権では、の滅亡後も後梁の元号は用いていない。