亀泉集証
亀泉 集証(きせん しゅうしょう、応永31年(1424年)-明応2年9月27日(1493年11月6日))は、室町時代後期の臨済宗一山派の僧。別号・松泉。相国寺塔頭鹿苑院内の蔭涼軒主(蔭涼職)。美作国の出身。
経歴
[編集]赤松氏の家臣・後藤氏の出身。季瓊真蘂の弟子となってその法統を継ぐ。また、瑞渓周鳳からも学んだ。応仁の乱とその前後の政争で季瓊真蘂が近江国に追われると、益之宗箴と共にこれに従った。その後、一旦は美作に帰国するも、文明13年(1481年)頃に帰京して季瓊真蘂に代わって蔭涼軒を継いだ益之宗箴を補佐、文明16年(1484年)にその後任となった。
足利義政の信任が厚く、山城国西禅寺や筑前国聖福寺の坐公文(居住義務を免ぜられた住持)に任ぜられ、『蔭涼軒日録』の現存部分の大部分は亀泉集証の手による(益之宗箴の代筆を務めた時期から退任後に重態になるまで)。
文明18年(1486年)頃から蔭涼軒主の辞表を出していたが、伊勢貞宗らの反対で受理されなかったと伝えれている[1]。
明応2年(1493年)閏4月になって病により蔭涼軒主の退任を認められるが、6月には天龍寺の坐公文に任ぜられる。それから間もない9月に70歳で没した。
日本初の「ラーメン」
[編集]『蔭涼軒日録』によれば、亀泉集証は文明17年5月17日(1485年6月29日)に中国の『居家必要事類』という書物で「水滑麺、索麺、経帯麺、托掌麺、紅絲麺、翠縷麺」等の麺料理の調理法を調べた[2]。また、長享2年(1488年)2月1日(3月14日)と5月16日(6月25日)には『居家必要事類』で調べた「経帯麺」という麺料理を調理し、蔭涼軒への来客の高僧らに振舞い、自らもこれを食した[3][4]。この「経帯麺」は材料として小麦粉とかん水を使うことも書かれており、日本初のラーメンである可能性が示されている。これらの事実は民間人の研究によって2017年(平成29年)に判明した[5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 高鳥廉「戦国期の蔭涼職と幕府政治」『足利将軍家の政治秩序と寺院』(吉川弘文館、2022年) ISBN 978-4-642-02976-6)P295.
- ^ “『大日本仏教全書. 134』「蔭涼軒日録 文明十七年五月十七日」”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2021年3月2日閲覧。
- ^ “『大日本仏教全書. 135』「蔭涼軒日録 長享二年二月朔日」”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2021年3月2日閲覧。
- ^ “『大日本仏教全書. 135』「蔭涼軒日録 長享二年五月十六日」”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2021年3月2日閲覧。
- ^ 初ラーメン水戸黄門でない? 室町時代の新資料発見 - 産経ニュース、2017年7月13日
参考文献
[編集]- 今泉淑夫「亀泉集証」(『国史大辞典 4』(吉川弘文館、1984年) ISBN 978-4-642-00504-3)
- 原田正俊「亀泉集証」(『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8)