下野上田藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

下野上田藩(しもつけかみだはん[注釈 1])は、下野国都賀郡上田村(現在の栃木県下都賀郡壬生町大字上田)を居所として、江戸時代中期の元禄年間にごく短期間存在した。1692年、徳川綱吉の近侍であった安房国東条藩主・西郷寿員が1万石で移されたが、職務怠慢などを理由として領地半減の処分を受け、2年足らずで廃藩となった。

歴史[編集]

関連地図(栃木県中部)[注釈 2]

元禄5年(1692年)2月7日、徳川綱吉小姓を務めていた安房東条藩主・西郷寿員(20歳)は、下野国都賀郡・河内郡芳賀郡に所領を移された[2]。寿員は上田を居所とし、これによって下野上田藩が立藩した[2]

寿員の義父にあたる西郷延員はすでに隠居していたが、隠居の身でありながら不行状であるとして元禄5年(1692年)5月29日に綱吉の勘気を受けた[3]。本来ならば他家に預けるべきところ、寿員が近侍であることが考慮され、罪が宥免されて上田での蟄居が命じられた[3]

翌元禄6年(1693年)11月13日、寿員は職務怠慢(「其勤よからざる」)を理由として中奥小姓に移される[2]。同年12月9日、反省が不十分(「つつしみおろそか」)であるとして、寿員は所領半減・寄合入り(無役の旗本への降格)・出仕停止の処分を受けた[2][注釈 3]。これにより、西郷家は5000石の旗本となり、下野上田藩は廃藩となった。

廃藩後もしばらく、上田村[注釈 4]は西郷家の知行地として残った[6]。隠居の西郷延員は元禄10年(1697年)4月25日に上田で没している[3]。元禄11年(1698年)3月7日、西郷寿員は下野国の知行地を近江国内に移された[2]。上田村は同年に旗本板倉重行[注釈 5]の知行地になったとみられ[7]、幕末まで板倉家が知行した[4]

歴代藩主[編集]

西郷家

譜代。1万石。

  1. 寿員

領地[編集]

上田村には中世に上田城が築かれており、大関氏一族の遺跡がある[8]。近隣の朝比奈にも館跡や寺社などがあり、上田一帯は「中世的な場」であった[9]。上田村の上田寺は日蓮宗の古刹で[10]、当地で隠居した西郷延員が上田寺を保護し、寺門が繁栄したと伝えられる[10]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日本郵便によれば、「上田」は「かみだ」と読む[1]
  2. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。黒文字は本文内で言及する土地。灰文字はそれ以外。
  3. ^ 『壬生町史』では、西郷寿員が所領を半減させられたのを元禄8年(1695年)としている[4]
  4. ^ 『慶安郷帳』(1648年)によれば、上田村は617石であった[5]
  5. ^ 板倉重直の子。

出典[編集]

  1. ^ 栃木県下都賀郡壬生町”. 郵便番号検索. 日本郵便. 2023年12月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻三百六十九「西郷」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1087
  3. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻三百六十九「西郷」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1086
  4. ^ a b 『壬生町史 通史編1』 1990, p. 528.
  5. ^ 『壬生町史 通史編1』 1990, p. 600.
  6. ^ 『壬生町史 通史編1』 1990, p. 529.
  7. ^ 『壬生町史 通史編1』 1990, p. 594.
  8. ^ 『壬生町史 通史編1』 1990, pp. 363–365.
  9. ^ 『壬生町史 通史編1』 1990, p. 365.
  10. ^ a b 上田村(近世)”. 角川地名大辞典(旧地名). 2022年10月2日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『壬生町史 通史編1』壬生町、1990年。 

関連項目[編集]

  • 壬生藩 - 下野上田藩成立と同じ1692年、綱吉の側近であった松平輝貞が入封している。

外部リンク[編集]