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ラリー・シノダ

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ローレンス・キヨシ・(ラリー)・シノダLawrence Kiyoshi (Larry) Shinoda1930年3月25日 - 1997年11月13日)は、シボレー・コルベットフォード・マスタングといった作品で知られるアメリカ合衆国カーデザイナーである。

履歴

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生い立ち

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ラリー・シノダはロサンゼルス日本人を両親に生まれた。南カリフォルニアで育ち、小学校時代に美術の才能を培い始めた[1]1941年12月からアメリカも参戦した第二次世界大戦中は、日系アメリカ人を対象とした人種差別政策である大統領令9066号の下で家族と共にマンザナー強制収容所強制収容されていた[2]

レースデビュー

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1945年8月の終戦後に解放されたシノダは、1955年にグレートベンド(Great Bend)で開催された第1回のNHRAチャンピオンシップ・ドラッグ・レーシング・シリーズNHRA)に1924年モデルのフォード・ロードスターで出場して優勝した[1]。シノダはロサンゼルスにあるアートセンター・カレッジ・オブ・デザインに入校したが退学処分にされた。

自動車デザイナー

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1955年フォード・モーターで働き始めた後、短期間パッカード社で働いた。その後1956年遅くにゼネラルモーターズ(GM)に入社した。GMのチーフデザイナービル・ミッチェルBill Mitchell)とコルベットの主任技術者ゾーラ・アーカス=ダントフZora Arkus-Duntov)と共に働き、シノダは自身の作品であるショーカーのメイコ・シャーク(Mako Shark)を踏襲した1963年と1968年モデルのコルベット スティングレーとして世に出るコンセプトカーの仕上げに携わった。

1968年に、ヘンリー・フォードの孫、ヘンリー・フォード2世(Henry Ford II)は、元GMの重役で後にフォード社の社長となるバンキー・ヌードセン(Bunkie Knudsen)を雇い入れ、ヌードセンはフォード車のデザインと販売台数の改善を目指してシノダをフォード社に迎い入れた。シノダのフォード社での最初の仕事は、Boss 302 マスタング(Boss 302 Mustang)として知られるマスタングの高性能モデルであった[3]。シノダはヌードセンへの敬意を表してこの車に「Boss」という名称を付けたといわれている。シノダは1970 - 1973年モデルのマスタングのデザイン作業を率いたが、1969年遅くにヌードセンがフォード社を解雇されるとシノダも同様に退社した。

独立

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後にシノダは独立しデザイン事務所を開設し、GM、フォード社やアフターマーケット部品会社の仕事を請け負った。シノダは、メーカの社内デザイン・チームに加わり後にXJCとして知られる車のクレイ・モデル(clay models)を製作するアメリカン・モーターズ(AMC)の3人の契約カーデザイナーの1人となった。1987年クライスラー社がAMCを買収するとこの車はジープ・ZJ(ジープ・グランドチェロキー)となった[4]

シノダは1996年腎臓に疾患を抱えるようになったが、現役のデザイナーとして活動を続けた[5]。移植を受ける前の1997年にシノダは心不全が原因でミシガンの自宅で67歳で死去した[1]。シノダの娘のカレン(Karen)は、チューナーでパフォーマンス部品会社のチーム・シノダ(現在のシノダ・パフォーマンス・ヴィークル)を設立した[6]

代表作

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脚注

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外部リンク

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