ヨハン・アドルフ2世 (ザクセン=ヴァイセンフェルス公)

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ヨハン・アドルフ2世
Johann Adolf II.
ザクセン=ヴァイセンフェルス公
在位 1736年 – 1746年

出生 (1685-09-04) 1685年9月4日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=ヴァイセンフェルス公領、ヴァイセンフェルス
死去 (1746-05-16) 1746年5月16日(60歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領ライプツィヒ
配偶者 ヨハネッテ・アントイネッテ・ユリアーネ・フォン・ザクセン=アイゼナハ
  フリーデリケ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク
家名 ヴェッティン家アルブレヒト系
父親 ヨハン・アドルフ1世
母親 ヨハンナ・マグダレーナ・フォン・ザクセン・アルテンブルク
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ザクセン=ヴァイセンフェルス公ヨハン・アドルフ2世(ドイツ語:Johann Adolf II. von Sachsen-Weißenfels、1685年9月4日 ヴァイセンフェルス - 1746年5月16日 ライプツィヒ)は、第5代かつ最後のザクセン=ヴァイセンフェルスSachsen-Weißenfels)公。

家系[編集]

ザクセン=ヴァイセンフェルス公ヨハン・アドルフ1世(Johann Adolf I. von Sachsen-Weißenfels)と、その妻であるザクセン・アルテンブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm II. von Sachsen-Altenburg)の娘ヨハンナ・マグダレーナ(Johanna Magdalena von Sachsen-Altenburg)の7番目の末子。母は生まれてからわずか5ヶ月で亡くなった。

ポーランド継承戦争[編集]

ポーランド継承戦争では、ザクセン軍を率いてポーランドに侵入した(1733年10月)。その後3年間、ザクセン軍は主にポーランド南部に留まったが、王位継承のライバル候補であるスタニスワフ・レシチンスキが敗れた後、ザクセン選帝侯アウグスト2世がポーランド王に即位するまで、ザクセン軍はポーランド南部に留まった。同じ年、兄が子を持たずに亡くなったため、ザクセン・ヴァイセンフェルス公を相続した。

第二次シレジア戦争の際、プロイセン軍がザクセンの国境を越えたため、ザクセンとオーストリアは共同でプロイセンに対抗することで合意した。ザクセン軍はシレジア北部でプロイセンを遮断し、オーストリア軍は南から進撃する計画であった。しかし、1745年6月、ホーエンフリードベルグの戦いで敗れてしまった。ヨハン・アドルフは、1745年9月に新たな攻勢作戦を計画したが、2週間後には考えを改めた。そのため、選帝侯の非嫡出の異母兄であるフレデリック・アウグスト・ルトウスキ伯爵が総司令官に就任した。

ケッセルスドルフの戦いの後、選帝侯は異母兄のルトウスキを総司令官から外し、ヨハン・アドルフを復職させ、1745年12月1日から総司令官としての任務を開始した。また、選帝侯とブリュール公使ハインリヒが不在の間、彼はザクセン政府の長に任命された。

ザクセン軍とともにボヘミアに退却した5ヵ月後に心臓発作で死亡。享年61。

関連項目[編集]

ヨハン・アドルフ2世 (ザクセン=ヴァイセンフェルス公)

1685年9月4日 - 1746年5月16日

先代
クリスティアン
ザクセン=ヴァイセンフェルス公
1736年 – 1746年
ザクセン選帝侯への領土返還