ファリダ (エジプト王妃)
ファリダ فريدة | |
---|---|
エジプト王妃 | |
| |
在位 | 1938年 - 1948年 |
出生 |
1921年9月5日 エジプト、アレクサンドリア |
死去 |
1988年10月16日(67歳没) エジプト、カイロ |
配偶者 | エジプト王ファールーク1世 |
子女 |
フェリアル ファウズィーヤ ファディア |
父親 | ユースフ・ズルフィカール・パシャ |
母親 | ザイナブ・ハヌム |
ファリーダ(亜剌:فريدة;ラテン文字転写:Farida, 1921年9月5日 アレクサンドリア - 1988年10月16日 カイロ)は、エジプト王ファールーク1世の最初の妻。エジプト王妃。出生時の姓名はサフィナーズ・ズルフィカール(صافيناز ذو الفقار;Safinaz Zulficar)といった。
生涯
[編集]アレクサンドリアの貴族の娘として生まれた。父のユースフ・ズルフィカール・パシャ(Youssef Zulficar Pasha)はアレクサンドリアの混合控訴裁判所の副所長を務めており[1]、母のザイナブ・ハヌム(Zainab Khanum)は宰相のムハンマド・サイード・パシャ(Muhammad Said Pasha)の娘で[2]、ナーズリー王妃の女官だった[3]。また母方の叔父マフムード・サイード(1897年 - 1964年)は高名な画家であった。フランス人修道女が経営するノートルダム・ド・シオン校(Notre Dame de Sion)で教育を受けた[4]。
1938年1月20日にカイロのサラヤー・エル・クッバ(Saraya el-Kubba)において、ファールーク1世王と結婚した。新王妃は先王フアード1世が導入した王家のメンバーのイニシャルを「f」に統一する伝統に従い、「ファリダ」と改名した。ファリダは欧米の影響から政治・外交面でファーストレディが求められる時代に王妃となり、エジプト赤新月社の総裁やその他の女性組織の名誉会長を務めた[4]。
国王夫妻の間には3人の娘が生まれたが、その後は妊娠の兆候は見られなかった。男子の後継者をもうける必要に迫られたファールーク1世は、1948年11月19日にファリダと離婚して、1951年にナリマン・サディクと再婚した。ファリダは1963年にエジプトを離れてレバノンに移住し、1968年よりパリに移って絵画制作を学んだ[5]。1974年、アンワル・アッ=サーダート政権下に帰国した。サーダート大統領はファリダに年金を与えて生活を保障し、ファリダは画家として活動した[5]。1988年に白血病のためカイロで死去した[6]。
ファリダは王妃の座にあった間、世界で最も美しい女性の1人と称賛されていた[6]。1948年の離婚劇はファリダに対する大きな同情を呼び起こし、特に欧米ではファールーク1世を頑迷固陋な専制君主だとする見方が強まった[6]。
子女
[編集]ファールーク1世との間に3人の娘をもうけた。
脚注
[編集]- ^ Charles Brice, William (1981). An Historical atlas of Islam. BRILL. pp. 299. ISBN 9004061169
- ^ Goldschmidt, Arthur (2000). Biographical dictionary of modern Egypt. Lynne Rienner Publishers. p. 178. ISBN 1555872298
- ^ Buyers, Christopher. “The Royal Ark: The Muhammad 'Ali Dynasty (EGYPT page14)”. 30 April 2012閲覧。
- ^ a b Raafat, Samir (March 2005). “EGYPT'S FIRST LADIES”. 2009年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年6月6日閲覧。
- ^ a b “Ex-Queen Farida of Egypt; First Wife of King Farouk”. Los Angeles Times. (1988年10月17日) 2012年4月30日閲覧。
- ^ a b c “Queen Farida of Egypt Dies at 68”. The New York Times. (1988年11月17日) 2009年6月6日閲覧。
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、ファリダ (エジプト王妃)に関するカテゴリがあります。