コンテンツにスキップ

バタイニツァ空軍基地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バタイニツァ空軍基地
Aerodrom Batajnica
Аеродром Батајница
管制塔
IATA: BJY - ICAO: LYBT
概要
国・地域 セルビアの旗 セルビア
所在地 ベオグラードゼムン
種類 軍用
運営者 セルビア空軍及び防空軍
開設 1951年
標高 86 m
座標 北緯44度56分07秒 東経020度15分27秒 / 北緯44.93528度 東経20.25750度 / 44.93528; 20.25750座標: 北緯44度56分07秒 東経020度15分27秒 / 北緯44.93528度 東経20.25750度 / 44.93528; 20.25750
滑走路
方向 長さ (m) 表面
11/29 1,100 草地
12R/30L 2,438 アスファルト
12L/30R 2,502 アスファルト
リスト
空港の一覧
テンプレートを表示
第101戦闘飛行隊のL-18(MiG-29
第138輸送飛行隊のYak-40
第890混成ヘリコプター飛行隊のH-45(SA342

バタイニツァ空軍基地セルビア語: Аеродром Бaтajницa / Aerodrom Batajnica)は、セルビア共和国の軍用航空基地である。ベオグラードの北西約20km、バタイニツァ地区とノヴァ・パゾヴァ(en:Nova Pazova)地区の間に位置する。この基地は、セルビアで唯一、2本のアスファルト舗装された滑走路を持つ飛行場である。

歴史

[編集]

バタイニツァ空軍基地は、1947年に建設が始められ、1951年に完成し、このとき航空基地として正式に発足した。基地の目的は首都の防空であった。草地の滑走路1本と、アスファルト舗装の滑走路2本を備える。2006年の組織再編までは「第177航空基地」の名称で知られていた。

バタイニツァは、第204戦闘航空連隊、第138輸送航空連隊及びその他のユーゴスラビア空軍部隊の基地であった。

1999年NATO軍によるユーゴスラビア空爆の間、バタイニツァ基地は25日間にわたって激しい爆撃を受け、甚大な被害を受けた。

2006年6月に、アメリカ空軍F-16戦闘機2機がバタイニツァ空軍基地を訪問した。20年以上途絶えていたアメリカ空軍機による、空爆後初の公式訪問であった。

駐留部隊

[編集]

以下のセルビア空軍及び防空軍英語版セルビア語版部隊が駐留している。

  • 第204飛行旅団:[1]
    • 第101戦闘飛行隊
    • 第252教育飛行隊
    • 第138輸送飛行隊
    • 第890混成ヘリコプター飛行隊
    • 第24空軍技術大隊
    • 第17基地保安大隊
    • 第177防空大隊
  • 空軍及び防空軍訓練センター :[2]
  • Moma Stanojlović航空機工場
  • 軍事技術試験センター飛行試験部門

民間利用

[編集]

セルビアの民間航空当局は、今後のバタイニツァ空軍基地へのLCCの商業飛行受け入れの可能性について、いくつかの観点から検討している。推進者は、わずか数km離れて隣接するベオグラード・ニコラ・テスラ空港に対し、この基地は、気象条件が有利であることに加え、E75高速道路に近接していること、市内へ鉄道で直接接続していることで、より理想的であると主張している。この提案では、バタイニツァ基地は軍民共用空港とし、軍用としても使用され続けるものの、空港の所有権は市当局に移管されるものとしている[3][4][5]

一般公開など

[編集]

通常、バタイニツァ空軍基地への民間人の立ち入りは制限されているが、空軍記念日などを中心に基地を公開して航空ショーが開催されることがあり、多数の見学客でにぎわう。

脚注

[編集]
  1. ^ 204TH AIR FORCE BRIGADE
  2. ^ AIR FORCE TRAINING CENTER
  3. ^ U Batajnicu će sletati i civili” (Serbian). B92 (9 January 2008). 2016年1月23日閲覧。
  4. ^ Aerodrom u Batajnici rezervisan za loukost letove” (Serbian). 24sata.rs (15 June 2011). 2016年1月23日閲覧。
  5. ^ Second airport for Belgrade by 2016”. EX-YU Aviation (27 June 2011). 2016年1月23日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 「ユーゴスラビアの航空ショー」『航空ファン』1990年12月号(Vol.39,No12)、文林堂、pp.16-19