ノート:スバル・360

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「一時期この六つ連星マークを新車から廃していったが、これは親会社となったゼネラルモータースの横槍によるものがある。日本車に対する自己満足的な報復であったのだろう。だが、結果はユーザーからの突き上げという形で返って来た。」 とありますが、六連星マークをはずしているのは、「国内仕様」に限られており,また、GM傘下にいた期間と一致していません。 なので、この記述は不正確ではないでしょうか。

1500の車名について[編集]

スバル1500がすばる1500に書き換えられていますが、スバルの公式サイトではカタカナ表記になっています。また、スバル360に関する文献にもあたってみましたが、スバル1500とカタカナになっていました。6台しか販売しなかった車らしいので正式名称がどっちだというのは恐らく不毛なのでしょうが、敢えて一般に(また公式に)使われているカタカナ表記ではなく、ひらがな表記にしたのか、その理由はありますでしょうか?

追記。スバル1500の(富士重工業)公式紹介ページです。Modeha 2005年2月23日 (水) 08:59 (UTC) http://www.subaru.co.jp/spirits/museum/m5/m5_01.html[返信]

特に異議がなかったので書き換えました。Modeha 2005年3月9日 (水) 00:11 (UTC)[返信]

前半が黎明期における「軽自動車略史」のようになっていますが、一車種を記述する項目としてはやや長いような気がします。とはいえ削るには惜しい内容ですので、「軽自動車」の項目に一部を移動してはどうでしょうか。 Tan--202.214.30.9 2005年9月22日 (木) 07:29 (UTC)[返信]

私も同感です。スバル1500に関する記述はスバル1500の記事を新規に作って分割し、「スバル以前」の部分は軽自動車に転記したいと思いますが、どうでしょうか。--Muyo master 2005年9月24日 (土) 01:24 (UTC)[返信]
とりあえず「スバル1500」について、{{記事分割}}のテンプレートを本文に貼らせていただきました。後は一応、整理依頼にも出しておくつもりです。--AB12 2006年1月14日 (土) 03:03 (UTC)[返信]
私は分割について反対します。スバル1500が量産された車種ならば分割すべきと考えますが、この車種は試作品の域を超えなかったわけであり、またこの車種における経験がスバル360開発への複線となっているので、独立させてしまうとそのあたりのストーリー性が弱まると思います。--pixan 2006年2月26日 (日) 05:36 (UTC)[返信]
「スバル以前」は「軽自動車」に移し、この項目では説明を簡潔にした方がいいと思います。その方が スバル360 という項目としては相応しいのではないかと。 By 健ちゃん 2006年10月14日 (土) 01:00 (UTC)[返信]
分割賛成です。詳細は以下のとおり。『スバル360#スバル以前』の内容は『軽自動車』に転記されるべきと思いました。さらに、「オートサンダル」「NJ」(今NJはニュージャージーのredirectですが)、「テルヤン」「フライングフェザー」「フジキャビン」(今は富士自動車へのredirect)「スズライト」「ロイトLP400」「スズライト・フロンテ」も分量によりますが新規項目とできればいいですね。『スバル360#富士重工業』の内容は、『富士重工業』にあってしかるべきとおもいました。『スバル360#P-1(スバル1500)』の内容は新規項目『スバルP-1およびスバル1500(スバルP-1への#redirect)』としてコピーされるべきとおもいました。そして、Pixanさんのおっしゃるストーリー性は、『富士重工業』が担うべき役割だと思います。今の『富士重工業』には重要なこの内容が沿革でさえ触れられていません。沿革に概略を記した上で見出しを独立させてスバル360に至る会社としての経緯や方針、状況の推移が書かれるべきと思います。個別車両に関する仕様などは個別項目に。そして、この『スバル360#スバル以前』に残すべき内容は、以下程度。『史上初の4輪軽乗用車には、1952年に製作された250cc車「オートサンダル」と見られている。その後1957年頃までに、いくつかのメーカーが4輪軽乗用車の開発を行ったが零細企業が技術的裏付けの薄いままに急造した粗末なもので、長続きはしなかった。「NJ(のち『ニッケイタロー』)」(日本自動車工業  1953~1957)、「テルヤン」(三光製作所 1957)などがある。富谷龍一により「フライングフェザー」「フジキャビン」も開発された。鈴木自動車工業(現・スズキ)の「スズライト」(1955年)はある程度評価されたが企業としての成功は改良型の「スズライト・フロンテ」の1962年以降であった。』です。--Pararinpooh 2006年10月14日 (土) 17:51 (UTC)[返信]

スバル・1500に関する記述の一本化の提案[編集]

以前行われていた議論ですが、改めて、スバル・360からスバル・1500に関する章(スバル・360#P-1(スバル1500))を転記する提案を行いたいと思います。ノート:スバル・1500にて意見を募集しています。尚、今回の議論では、以前行われていた、別の章の軽自動車への転記の提案に関しては行いません。--Taisyo 2008年9月20日 (土) 12:36 (UTC)[返信]

赤城山登坂の日付[編集]

8月説と2月説が併記されていますが、私は文献では8月説しか見たことがありません。当時、伊勢崎から赤城山への道路は赤城温泉経由しかなく(この道は今もあります)、しかも冬は積雪があります。10インチタイヤが実用化されていなかった当時、スバル360用のチェーンは存在していなかった可能性が高く、もし8月時点で登坂できなかったような360cc車が(たとえ改良したとしても)2月に登坂に成功する可能性は極めて低いと考えます。というか、現代でも冬にあの坂を360cc車で登坂するのには決死の覚悟が必要だと思います。特に根拠の提示がなければ、8月説の根拠文献を提示した上で2月説を除去したいと思いますがご意見をお伺いします。Modeha 2008年12月13日 (土) 14:32 (UTC)[返信]

この件に関する若干の補足です。当時、スバル360の登坂試験に使われた道は、2009年現在、「2月は積雪のため通行止め」です。しかもこれは毎年です。もっと正確には、赤城温泉までは行けますが、そこから上はすべての車両が通行止めです。1958年当時も恐らく通行止め(というかその前に通行不可能)だったと思う、という当時の登山者の言及が得られましたが今のところ発表されていないので独自研究です。その言及によれば、当時はバスは冬期運休だった(赤城温泉までで折り返し)、冬期に赤城山頂付近に行くのには、水沼駅周辺からケーブルカー(現在は廃止)を使った、ということでした。2月登坂説は現実とも乖離しているようです。Modeha 2009年2月11日 (水) 14:09 (UTC)[返信]

1年以上も前の提議でありますが、失礼ながら道路のルートに関しては間違いです。Modehaさんの提示しているのは赤城温泉経由ということからして旧大胡町宮城村経由の群馬県道16号大胡赤城線のことですが、この道路は大胡町から伊勢崎に至る県道と繋がるものの、狭隘・冬期通行不能路のため赤城山頂に至るメインルートとして用いられたことはないようです。赤城山頂のカルデラ内は旧・富士見村に属し、通年居住する住民がいました。そのライフラインとなる生活道路は、前橋市街からの県道(旧富士見村経由の群馬県道4号前橋赤城線)で、後年の1960年代にルート変更と改良で有料の赤城南面道路(2車線舗装路)となり現在は再び無料開放された道路の前身であり、こちらは著しい積雪による実質通行不能の時はともかく、基本的には有料道路化以前から通年通行可となっていたバス通行路です。「一杯清水」「新坂平」もこの道路上にある地名で、スバル360のテストが前橋赤城線で行われたこと自体は疑う余地はないと思われます。--佐伯 2010年3月22日 (月) 08:58 (UTC)[返信]