コンテンツにスキップ

センキ・テギン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

センキ・テギン(Sengki tigin、生没年不詳)は、14世紀中に活躍した大元ウルスのウイグル人。本来は天山ウイグル王国の君主(イディクート)の末裔であるが、祖父の時代にカイドゥの侵攻によって本領(ウイグリスタン)を失ってしまったため、大元ウルスにおいて準王族として活動した。

元史』などの漢文史料では籛吉(jiānjí)と表記されるが、蒙漢合壁碑(ウイグル文字文と漢文の両方が記される碑文)の「高昌王世勲碑」の記述により「センキ・テギン(Sengki tigin)」が正しい名前であると判明している[1]

概要

[編集]

センキ・テギンはモンゴル帝国に臣従した天山ウイグルの君主のバルチュク・アルト・テギンの末裔に当たるが、天山ウイグル王国は父のネウリン・テギンの治世にカイドゥの侵攻によって失われ、王家は永昌路に移住していた。センキ・テギンはネウリン・テギンと第2代皇帝オゴデイの孫娘のバブチャ公主との間に生まれ、同母兄にはテムル・ブカがいた。

ネウリン・テギンの死後、「高昌王」位は兄のテムル・ブカが継いだが、テムル・ブカは天暦の内乱で活躍し朝廷の高官となったため、1329年(天暦2年)に「高昌王」位は弟のセンキ・テギンに譲られた[2]。センキ・テギンの高昌王としての活動はほとんど知られておらず、1332年(至順3年)に亡くなって弟のタイピヌ・テギンが地位を継承したとのみ記録されている[3]

天山ウイグル王家

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 劉1984,p.70/80
  2. ^ 『元史』巻122列伝9巴而朮阿而忒的斤伝,「子二人、長曰帖木児補化、次曰籛吉、皆八卜叉公主所生也。……其弟籛吉乃以譲嗣為亦都護高昌王」
  3. ^ 『元史』巻36文宗本紀5,「[至順三年]五月己巳朔、高昌王籛吉薨、其弟太平奴襲位」

参考文献

[編集]
  • 安部健夫『西ウイグル国史の研究』中村印刷出版部、1955年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 劉迎勝・Kahar Barat「亦都護高昌王世勲碑回鶻文碑文之校勘与研究」『元史及北方民族史研究集刊』8、1984年
  • 元史』巻122列伝9
  • 新元史』巻109列伝13
  • 蒙兀児史記』巻36列伝18
先代
テムル・ブカ
永昌路の高昌王
1329年 - 1332年
次代
タイピヌ・テギン