ジョージ・メイソン=ヴィリアーズ (第2代グランディソン伯爵)

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第2代グランディソン伯爵ジョージ・メイソン=ヴィリアーズ英語: George Mason-Villiers, 2nd Earl Grandison PC (Ire)1751年7月13日1800年7月14日)は、イギリスの政治家、貴族。

生涯[編集]

アランド・ジョン・メイソン(Aland John Mason、1759年3月26日没、アイルランド庶民院議員)と初代グランディソン女子爵エリザベス・メイソン(1782年没、後の初代グランディソン女伯爵)の息子として、1751年7月23日に生まれた[1]。1762年から1766年までイートン・カレッジで教育を受けた[2]。1771年10月21日[2]、国王の許可を受けてヴィリアーズを姓に加えた[3]

1774年イギリス総選挙ラッドロー選挙区英語版から出馬して、庶民院議員に当選した[2]。議会で演説、投票した記録はなかったが、『パブリック・レジャー英語版』誌は1779年にメイソン=ヴィリアーズが「常に内閣を支持する投票をした」と報じた[2]。また、トーリー党所属ともされた[3]1780年イギリス総選挙では引き続き内閣を支持するものとされたが、当時外国に滞在していたメイソン=ヴィリアーズは出馬を辞退した[2]

1782年5月29日に母が死去すると、グランディソン伯爵の爵位を継承、1784年5月4日にアイルランド貴族院議員に就任した[1]。1785年11月5日にはアイルランド枢密院英語版の枢密顧問官に任命された[2]

1800年7月14日に死去、息子をもうけなかったため爵位は断絶した[3]。ドロマナの領地は娘ガートルードが継承、ガートルードが1809年に死去した後はその息子ヘンリー英語版が継承した[3]

家族[編集]

1772年2月10日、ガートルード・シーモア=コンウェイ(Gertrude Seymour-Conway、1750年10月9日 – 1793年9月 スイス初代ハートフォード侯爵フランシス・シーモア=コンウェイの娘)と結婚[1]、1女をもうけた[3]

出典[編集]

  1. ^ a b c Cokayne, George Edward, ed. (1892). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (G to K) (英語). Vol. 4 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 78.
  2. ^ a b c d e f Drummond, Mary M. (1964). "VILLIERS, George, Visct. Villiers (1751-1800).". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年9月14日閲覧
  3. ^ a b c d e "Grandison, Earl (I, 1767 - 1800)". Cracroft's Peerage (英語). 2019年9月14日閲覧
グレートブリテン議会英語版
先代
ウィリアム・フェローズ
トマス・ハーバート
庶民院議員(ラッドロー選挙区英語版選出)
1774年 – 1780年
同職:クライヴ男爵英語版
次代
クライヴ男爵英語版
フレデリック・コーンウォール英語版
アイルランドの爵位
先代
エリザベス・メイソン
グランディソン伯爵
1782年 – 1800年
断絶