コンテンツにスキップ

コンチャーカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コンチャーカ[注 1]ロシア語: Кончака、? - 1318年)はジョチ・ウルスハンウズベクの姉妹である。モスクワ大公ユーリー3世の妻となった。聖名アガフィヤ[2]

1317年、モスクワ大公ユーリーと結婚した[3]。この結婚は、チンギス統原理に従って、モスクワ公家の家名を高めた。コンチャーカは洗礼を受け、アガフィヤの名を得た。

同年、夫ユーリーはトヴェリ公国へ侵攻するが、コンチャーカは12月22日のボルテネフの戦い(ru)の際にトヴェリ公ミハイルの捕虜となり、トヴェリへ送られた。コンチャーカはその後すぐに死亡したため、ユーリーとの間に後継者となる子を産むことができなかった。

モスクワ・トヴェリの戦いの後、ユーリー、ミハイルは前後してジョチ・ウルスに出向しており、1318年にミハイルはコンチャーカ殺害の嫌疑をかけられたが、これを否定した[3]。なお、コンチャーカはミハイルによって毒殺されたとみなされたが、年代記には記述はない[2]

コンチャーカの遺体は初めトヴェリに埋葬されたが、のちにロストフへ運ばれ、1319年に生神女就寝大聖堂に埋葬された[4]

後年、ツァーリの王権の象徴となるモノマフの冠(の祖形となった被り物)は、ウズベク・ハンからコンチャーカを通して夫ユーリーへと伝わったとみなす説がある[5]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 「コンチャーカ」は日本語文献による[1]。ロシア語からの転写。

出典

[編集]
  1. ^ A.A.ゴルスキー著、宮野裕訳『中世ロシアの政治と心性』(人間科学叢書48)2020年
  2. ^ a b Агафия, ханша монгольская // Русский биографический словарь : в 25 томах. — СПб.—М., 1896—1918.
  3. ^ a b Кончака // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона : в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.
  4. ^ Хмыров М. Д. Алфавитно-справочный перечень Государей Русских и замечательнейших особ их крови. — СПб., 1870. — С. 5.
  5. ^ Борисов Н. С. Повседневная жизнь средневековой Руси накануне конца света. Россия в 1492 году от Рождества Христова. — Академический проект, 2017. — С. 151.