アンドレイ・フリンカ

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独立スロバキアの紙幣にデザインされているフリンカの肖像

アンドレイ・フリンカ(Andrej Hlinka、1864年9月27日-1938年8月16日)は、スロバキア政治家カトリック聖職者スロバキア人民党の指導者。

スロバキア北部チェルノヴァージリナ県ルジョムベロク)生まれ。スピシュスカー・カピトゥラで神学を学ぶ。1913年、スロバキア人民党の創設に加わり、以後その死まで指導者の地位にあった。ハンガリーの支配から脱却を主張し、1918年にスロバキア国民会議に参加し、チェコと共同国家建国を掲げたマルチン宣言にも署名した。チェコスロバキア建国後、1918年のピッツバーグ協定を根拠にスロバキアの自治要求、またカトリックに基づく教権主義を主張し、下院の議席数(定数300)でみると、12議席(1920年)、23議席(1925年)、19議席(1929年)、22議席(1935年)[1]と、スロバキア地域で一定の支持を得た。

ミュンヘン協定でチェコスロバキア第一共和国が崩壊する2ヶ月前に死去。

1993年から2009年ユーロ導入まで発行されていた1000スロバキア・コルナ紙幣に肖像が使用されていた。

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  1. ^ 「自治ブロック」として参加