アマド・シャールル・アズハル・ソフィアン
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Ahmad Shahrul Azhar Sofian | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | マレーシア | |||||
生年月日 | 1974年10月24日(50歳) | |||||
出身地 | イポー | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1996-1997 | ペラFA | (3) | ||||
1998-1999 | ヌグリ・スンビランFA | (3) | ||||
2000-2008 | ペラFA | (21) | ||||
2009 | プロトンFC | |||||
代表歴 | ||||||
2002 | マレーシア U-23 | 3 | (0) | |||
1999-2002 | マレーシア | 41 | (7) | |||
監督歴 | ||||||
ヌグリ・スンビランFA U-20(アシスタント) | ||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アマド・シャールル・アズハル・ソフィアン(マレー語: Ahmad Shahrul Azhar Sofian、1974年10月24日 - )は、マレーシアの元サッカー選手、現サッカー指導者。元マレーシア代表。ポジションはMF。
クラブ歴
[編集]1996年にペラFAで選手となる。1998年から1999年にかけて一旦ヌグリ・スンビランFAに移籍したものの、その後ペラFAに復帰した。ペラFAでは背番号9番を背負い、主将も務めた。その能力の高さでも知られていたが、同時に気性の激しさでも知られていた。プタリン・ジャヤ・シティFC戦でレッドカードを提示された時には第四審に対して狂態を見せ、12ヶ月の出場停止となった。また、2007年のマレーシアカップ出場でも退場となっている。
2009年にはマレーシア・プレミアリーグのプロトンFCに移籍し、この年を以て選手を引退した。
代表歴
[編集]1999年のダンヒルカップで代表初出場を果たした。その後、1999年東南アジア競技大会サッカー競技ではカンボジア代表相手にハットトリックを達成した。2000年にはマレーシア代表の主将に任命された。
2002年アジア競技大会サッカー競技が代表としての最後の出場となった。この時はオーバーエイジ枠としてU-23代表初の出場でもあった。
個人成績
[編集]代表での得点一覧
# | 日附 | 場所 | 対戦相手 | 得点 | 結果 | 大会 |
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1. | 1999年8月4日 | バンダル・スリ・ブガワン・ベラカス・スポーツ・コンプレックス | カンボジア | 0-1 | 2-7 | 1999年東南アジア競技大会 |
2. | 2-3 | |||||
3. | 2-7 | |||||
4. | 2000年11月7日 | ソンクラー・ティンスラロン・スタジアム | ラオス | 0-5 | 0-5 | 2000 タイガーカップ |
5. | 2000年11月9日 | ソンクラー・ティンスラロン・スタジアム | カンボジア | 3-0 | 3-2 | |
6. | 2001年2月9日 | バ | フィジー | 1-2 | 親善試合 | |
7. | 2001年6月25日 | シャー・アラム | ボスニア・ヘルツェゴビナ | 2-2 | 2-2 | ムルデカ大会2001 |
タイトル
[編集]2005年にはチームメイトであった陳永雄、ナンタクマル・カリアパン、モハマド・ハムサニ・アマド、シャムスル・サードと共にペラ州から州のサッカー発展への貢献について叙勲された[1]。
参考文献
[編集]外部リンク
[編集]- アマド・シャールル・アズハル・ソフィアン - National-Football-Teams.com
- Biodata Ahmad Shahrul Azhar