アデン危機
アデン危機 英語:Aden Emergency アラビア語:ثورة 14 أكتوبر(10月14日革命) | |||||||
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アデン保護領の位置 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
イエメン国民解放戦線(NLF) エジプト イエメン・アラブ共和国(北イエメン) ソビエト連邦 | |||||||
指揮官 | |||||||
ハロルド・ウィルソン首相 マイケル・レ・ファヌ海軍大将 マイケル・ビーサム空軍准将 コリン・ミッチェル陸軍中佐 |
カーターン・ムハンマド・アル=シャアビー アブドゥッラー・アル・アスナグ ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領 | ||||||
戦力 | |||||||
イギリス軍:最高3万人[1](1967年11月時点で3500人)[2] 南アラビア連邦軍:1万5000人[3] | |||||||
被害者数 | |||||||
イギリス 死亡:90~98人 負傷:510人[4][5] 南アラビア連邦 死亡:17人 負傷:58人 |
死亡:382人 負傷:1714人[6] | ||||||
死亡合計:2096人[7] |
アデン危機(アラビア語:ثورة 14 أكتوبر(10月14日革命))は、1963年12月10日~1967年11月30日にかけて、アデン保護領と南アラビア連邦で行われた、南イエメンがイギリスから独立した戦争である。 ナーセル大統領率いるエジプトが、汎アラブ主義の為に独立軍を支援した。 また、ソ連も独立軍を支援した。
背景
[編集]イギリスは英領インドへの海路に発生する海賊対策の拠点として、アデンを占領していた。
1869年にスエズ運河が開通すると、給炭港として重要性を増した。
1947年のインド独立後は、イギリスにとっての重要性は低下した。
1956年7月26日、エジプトのナセル大統領がスエズ運河を国有化した。
10月29日、イギリス・フランス・イスラエルがエジプトに侵攻し、第二次中東戦争が発生した。
11月2日、アメリカとソ連が共同で3国に圧力をかけ、撤退させた。
1958年、エジプトがシリアと連合し、アラブ連合共和国を建国した。
1961年、シリアがアラブ連合共和国から脱退し、連合は事実上消滅した。
NLFとFLOSYの誕生
[編集]1963年以降、様々な政治目標を持つ反イギリスゲリラが活動していたが、イエメン国民解放戦線(NLF)と占領下の南イエメン解放戦線(FLOSY)の2大組織に集約していった。 NLFとFLOSYはイギリスだけでなく相互に攻撃し合っていた。
闘争開始
[編集]1963年12月10日、NLFがアデンのコルマクサル空港で、ロンドンに戻る途中のイギリスのアデン高等委員会のケネディ・トレヴァスキスを手榴弾で攻撃した。 この攻撃で巻き込まれた1人が死亡し、50人が負傷した。 同日、アデンに緊急事態宣言が出された。
その後のNLFとFLOSYはイギリスへの攻撃を強め、コルマクサル王立空軍基地への攻撃では、イギリス人の子供が1人死亡し、4人負傷した。 ゲリラは非番のイギリス人軍人や警察官を中心に殺害した。 殆どの攻撃はアデンの古いアラブ人地区であるクレイターで行われた。 イギリス軍はNLFやFLOSYによってクレイターに武器が運び込まれるのをダラ道で阻止しようとしたが、あまり効果が無かった。 イギリス軍にも犠牲者は出たが、組織間抗争の為ゲリラの被害は遥かに大きかった。
1964年、地上作戦を行う為に第24歩兵旅団が到着した。 彼らは独立戦争で敗北するまでアデンに留まった。
1965年までに、コルマクサル王立空軍基地では9つの飛行中隊が作戦を行っていた。 この中にはヘリコプターやホーカー ハンターから成る輸送部隊が含まれた。 ゲリラはRP-3やADENで反撃した。
アデン街頭抵抗運動
[編集]1967年1月19日~20日、NLFはアデン街頭抵抗運動を仕掛けた。 アデン警察の手には負えなかった為、高等委員会のリチャード・ターンブル卿はイギリス軍を派遣して抵抗運動を蹴散らした。 しかし、すぐにFLOSY派の抵抗運動がそれに代わった。 抵抗運動とイギリス軍の戦闘は2月まで続いた。 イギリス軍は40回発砲し、ゲリラは60発の手榴弾で応えた。 飛行中のアデン航空のダグラス DC-3が戦闘に巻き込まれ、墜落し乗客が全員死亡した。
アラブ人警察官の蜂起
[編集]1967年6月、第三次中東戦争が発生し、アデンの状況は更に悪化した。
6月20日、エジプトのナセル大統領の「イギリスが戦争でイスラエルを支援した」との主張に呼応した南アラビア連邦の何百人もの警察官が、イギリスに反旗を翻した(en:Arab Police mutiny)。 この蜂起はアデン武装警察にも広がり、22人のイギリス軍を殺害し、ヘリコプターを撃墜し、クレイターを獲得した。 イギリス人がアデンから避難する様子が、「不毛の岩から生ける石まで」と記録されている。
クレイターの戦い
[編集]クレイターの戦いの結果イギリス軍は撤退したが、その間にイギリス海兵隊の45コマンドが高所からアラブ人兵士を10人射殺した。 しかし、アラブ人兵士は約400人でクレイターを防衛した。 NLFとFLOSYの兵士は市街地で銃撃戦を始めたが、放火や強盗、殺人等も発生した。 イギリス軍はクレイターの主要な出口を2つ封鎖した。 イギリス軍はシラ島のオスマン要塞から狙撃したが、装甲車の砲撃によって狙撃手は殺害された。
7月、スコットランドのコリン・ミッチェル陸軍中佐率いるアーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダーズがクレイターを制圧した。
イギリス軍の撤退
[編集]11月下旬、度重なるNLFゲリラの攻撃により、イギリス軍はアデンから撤退した。 この撤退はイギリスのハロルド・ウィルソン首相の計画より早かった為、後継政府を決める事が出来なかった。 その後、NLFはイエメン人民民主共和国(南イエメン)を建国した。
独立後
[編集]アデンのイギリス海軍基地は閉鎖された。
脚注
[編集]- ^ “Wars and Global Conflict: Confrontations and Hostilities”. Modern-Day Commando. 2014年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月26日閲覧。
- ^ “Aden Emergency”. nam.ac.uk. 2016年10月10日閲覧。
- ^ “ADEN EMERGENCY PSYOP 1963–1967”. PsyWar.Org. 2016年10月10日閲覧。
- ^ Roll of Honor
- ^ “ADEN EMERGENCY PSYOP 1963–1967”. PsyWar.Org. 2016年10月10日閲覧。
- ^ “ADEN EMERGENCY PSYOP 1963–1967”. PsyWar.Org. 2016年10月10日閲覧。
- ^ J.E.Peterson, British Counter-Insurgency Campaigns and Iraq. August 2009: p.12.
参考文献
[編集]- Laffin, John (1986). Brassey's Battles: 3,500 Years of Conflict, Campaigns and Wars from A-Z. London: Brassey's Defence Publishers. ISBN 0080311857
- Naumkin, Vitaly, Red Wolves of Yemen: The Struggle for Independence, 2004. Oleander Press. ISBN 0-906672-70-8
- Walker, Jonathan, Aden Insurgency: The Savage War in South Arabia 1962–67 (Hardcover) Spellmount Staplehurst ISBN 1-86227-225-5
外部リンク
[編集]- Infantry Assistance From Outside Aden [1]
- Emergency in Aden: An Analysis of the British Withdrawal from South Arabia
- www.britains-smallwars.com – "The Barren Rocks of Aden".
- Argylls in Aden http://www.argylls1945to1971.co.uk/A_and_SH_Aden1967.htm
- Foreign Office documents concerning Aden, Yemen and the Aden emergency of 1963–1967 [2][リンク切れ]