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Wikipedia:自閉症とアスペルガー症候群の編集者

A group of students and their family members carrying a sign saying "Different Not Less: We Are United" with different coloured puzzle pieces on the sign
「違いは足りなさではない」(自閉症啓発デーにデモウォークをする生徒と家族)

ウィキペディアは究極のハニーポットだ!自閉症の人間を集めることに特化した作業環境をつくれといわれたら、研究者が束になったとしてもウィキペディア以上のものは思いつかないだろう。

自閉症スペクトラム障害を身近な問題として考えるならば、何でもそうだけれど、おそらく「障害」だとか「無能」と考えるのはふさわしくなくて、思考プロセスにおける「違い」ととらえるのがよいだろう。そこに障害とか無能のようなラベルを貼ってしまうと、我々の考え方そのものが「何かが足りない」という発想に変わってしまう。そうではなくて日常的な言葉づかいでいえば「変わっている」「珍しい」ということで、それは髪の毛の色や目の色などが人と「変わっている」「珍しい」ということと何ら変わりがない。

ウィキペディアの編集と自閉症

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自閉症であるかどうかにかかわらず、ウィキペデイアの編集に向いていない人はいる。荒らしやいたずら、暴言、妨害などを行う利用者はブロックされたり追放されるし、自閉症であることはそのような行動をとる言い訳にはならない。一方で、ウィキペディアにおける最高の利用者が自閉症ということもある。自閉症を自認し、かつ管理者として活動している英語版の利用者はこのリストで確認できる。

実際のところ、このウィキペディアで自閉症の編集者に出会う確率は、おそらく実際の人口比からすればはるかに高いはずだ。ウィキペディアは自閉症の人にとってのハニーポットだというゆえんである。

これには二つの側面がある。

  • ニューロティピカルな編集者は、普段よりも自閉症の人間に出会う確率が高いことに自覚的であるべきであり、彼らとどう付き合っていくのが最も生産的なのかを知る必要がある。
  • 自閉症の人間が「すみませんが私は自閉症(またはアスペルガー)のため理解力に乏しいところがありますので」カードを出すのは悪手!ここにはいくらでもいるし、それを言い訳に使っているかどうかはすぐわかるぞ!自閉症なことは、ばかであることを正当化できるわけではない。

ニューロティピカルでもそうでなくても、あらゆる編集者は何かを説明するときにやり方を変えてみることに前向きであるべきだ。自分にとってしっくりくる思考プロセスが、いま自分が対話ている相手にとっては全く異なる可能性があることに留意する必要がある。

事実や情報は、自閉症の人間にとっては非常に大切なものであることがある。「所有」できたり「与える」ことが同時に成立する財産のようなものなのだ。そして自閉症の人は「ものを知る」「覚える」ことを自分の強みだと思っていることが多いので、その自分が暗記していることが結局は正しくなかったということが発覚してしまうと、打ちのめされてしまうかもしれないのだ。まるで、嘘をつかれたり、何かが盗まれたように感じてしまう。そうなるとパニックになってしまうから、何かを「知っている」と思っている人にその何かの正しさを疑わせるときは慎重になるべきだ。だからこんな風に説明してみよう。「あなたが調べてくれたおかげでより正確な内容がわかりました。次から皆にシェアできる新しい情報ですね、これは」。自閉症の編集者にとって、自分が大切にしている事実が覆されたり、反論されたり、否定されるということは、子供がサンタクロースなんていないよ、と言われるに等しいのだ。あるいはニューロティピカルな人にとっては、自分の家に誰かが侵入してくる場面を想像してみるとよいかもしれない。なぜ彼らがそこまで感情的になってしまうのか、ということの答えでもある。きわめてシンプルだが重要なパラダイムシフトを起こそう。「あなたの知識を攻撃している」人がいるのではなく、「あなたにもっと深い知識をもたらす」人がいるのだ。

ここには「お前の家に火をつけてやったぜ!」と「新しい家を買ってあげたよ」ぐらい強烈な違いがある。

理解と寛容

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自閉症ではない人間にとって、自閉症スペクトラム症は基礎的な知能(あるいはそれがどう見えるか)に影響を与えるわけではないし、それが彼らと日常生活を過ごす「障害」になるわけでは全くないという事実について腹落ちすることは超大事なことである[1]

ニューロティピカルな人と比較したときに、自閉症あるいはアスペルガーの人が「障害」を持っているといえるのは、社会的な相互作用や言語処理における違いを直感的に理解できるかどうかだけである。これは裏返せば(そして単なる逆張りではなく事実なのだが)ニューロティピカルな人は、情報処理やインデックス化、情報に素早くアクセスすることができず、そういった能力に「障害」をもっているということでもある。どちらのタイプの人間でも、それぞれお互いと比較すれば機能障害と呼べる分野があるということだ。

自閉症の編集者がきわめて低水準の言語運用能力やコミュニケーション能力しか持っていないように(ニューロティピカルな人には)見える、のと同じように、ニューロティピカルな人は(高機能自閉症の人やアスペルガーには)データ処理能力が愚鈍なレベルにあるように見える。これが私たちが記事の編集をめぐってお互いにいともたやすく我慢の限界をこえてしまう原因である。どちらのタイプもお互いが、妨害的で、陰険で、不誠実なわけではない(あるいは「障害者」ではない)と考えることが、ほとんど不可能に近い。

コンピューターに例えてみるのがいいかもしれない。あるコンピューターは、すばらしく直感的に操作できるインターフェイスをそなえているのに、データ処理能力についていえばとにかくお粗末。もう一方のコンピューターはデータ容量と処理能力については優秀だが、ユーザー・インターフェイスについてはどうしようもない。これは、それぞれのコンピューターにプリインストールされたソフトウェアに由来する違いを単純化した比喩だ(何がアウトプットされるかの違いじゃない)。ニューロティピカルな人には、自閉症が実際にはどういうものであるかについて著しい誤解がある。この誤解が様々な問題を生むわけで、その解決策といえば教育による啓蒙しかない。高機能自閉症もニューロティピカルもお互いを比較するほど「厚みのある」概念ではない。我々はアウトプットのためのプロセスがどこにあるかが違うだけなんだ。

脚注

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  1. ^ Baron-Cohen S (2002). “Is Asperger syndrome necessarily viewed as a disability?”. Focus Autism Other Dev Disabl 17 (3): 186–91. doi:10.1177/10883576020170030801. A preliminary, freely readable draft, with slightly different wording in the quoted text, is in: Baron-Cohen S (2002年). “Is Asperger's syndrome necessarily a disability?”. Autism Research Centre. 17 December 2008時点のオリジナルよりアーカイブ2008年12月2日閲覧。

読書案内

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