Wikipedia:井戸端/subj/本文の記述を検討する際のノートへの転記・移動

記事の記述を検討する際の、当該記事のノートへの転記・移動について[編集]

記事の記述を検討する際に当該記事のノートへ記述を転記/移動するとき、記事本文へのリンクがないとGFDL違反になりますか?Wikipedia:削除依頼/ノート:引用へご意見お寄せください。一般論としては、ここにご意見いただいてもいいです。Uryah 2008年4月13日 (日) 08:06 (UTC)[返信]

リンクの有無は基準とならないと思うが、「どこから持ってきたか」が明記されていないことには、記事の検討の素材として機能しないんじゃないだろうかと思う。検討するための素材として機能するような書き方になっていれば、自然とGFDLを満たすかたちになるんじゃね?--Nekosuki600 2008年4月13日 (日) 08:28 (UTC)[返信]
ノート:引用の履歴に、記事本文から移動しました。該当部分の執筆者:G7gh8t、要出典付記:Uryah。と書いたのだけど、GFDLの履歴不継承に該当?
GFDLの「履歴が要」というのは、「その記述がどこから来たかわからなくなるのはダメ」という意味ではないのですか?書式はなんであれ、定型であれ不定形であれ、「その記述がどこから来たかわかるようにする!」というのがGFDLが求める履歴の継承ではないですか?違ってます?Uryah 2008年4月13日 (日) 08:37 (UTC)[返信]
GFDL の (改変を伴う複製の際の) 履歴継承は 4I で規定されています。「書式はなんであれ、定型であれ不定形であれ」内容は 4I で決められています。ウィキペディアにおいてそれをどの様に実現する (どうすれば求められていることを満たしたと考える) かはWikipedia:著作権#ウィキペディアにおけるコピー・アンド・ペーストにあります。この解釈によれば、リンク必須ですが、4I を別途満たせるなら、リンクがなくとも良いでしょう。全体的整合性からすれば、転記の際、要約欄で転記元にリンクすることで、転記元の履歴の一部が転記先の履歴に機能上継承された、と考えるのが妥当な運用でしょう。現在、その部分をより明確にしたWikipedia:著作権/改訂案が提案されています。--Jms 2008年4月13日 (日) 09:06 (UTC)[返信]
◆一般論なのでここに。GFDLでは4-Iに書かれているように「転記元の履歴」を統合する必要があります。ウィキペディア日本語版ではGFDLの4-Iなどを満たす手法としてリンクを使うようにしています。これは、すべての履歴の列挙をリンクで代替しているということです。Wikipedia:ページの分割と統合#一部転記の手順をご覧ください。
なお、(GFDLはウェブ上のドキュメントだけへの適用を想定したものではないことからも判るように) もちろんGFDLとしてはリンクは必須ではありませんが、リンクしない場合にはGFDLの4-Iを満たすための別の手段を取る必要があります。例えば、ウィキペディア日本語版の記事を紙媒体で頒布するためにはそれに「履歴」節を設け、ウィキペディア日本語版の「履歴」をそこにすべて転記する必要があります。この場合、URLの記載で4-Iを満たすとは解釈されません。GFDLから考える場合、ウィキペディア日本語版で行われている手法はちょっと異質とも言えるはずですが、MediaWikiの実装上からも運用上からも (別途「履歴」という節を設けることと比べ) 要約欄からのリンクで済ませるということは妥当な運用だと考えています。--iwaim 2008年4月13日 (日) 10:01 (UTC)[返信]
えーと、付記。
編集内容の検討のために本文の一部をノートに転記することは、「引用」ということになりましょう。引用の場合、引用の要件を満たしていれば合法的なものとなり、その場合はGFDLよりは引用要件が優先されることになるものと考えられます。よって、引用の要件を満たせば十分であり、引用の要件を満たすためにはリンクは必須ではありません。リンクは、引用の要件を満たすため(出典を明らかにするため)の様式のひとつ、ということになります。「編集内容の検討のため」という目的を満たすためには引用元を明らかにする必要があります(何を検討するかを明らかにせにゃなりません)が、それで十分ということになりゃしませんか。
というか、「GFDLを満たしていない」という話にして特定版削除を求めるなどして内容の検討をややこしくすることにメリットが見出せないのですが。--Nekosuki600 2008年4月13日 (日) 10:26 (UTC)[返信]
引用の要件を満たすためには、当該引用部分の著者を特定する必要があります。実際問題として、それを調べるのは現実的ではないと思います。翻訳のガイドラインでは、5 人の主要著者選出でさえ非現実的であることから、履歴リンクによってその特定に代えています。引用の要件を満たすための様式の一つであるリンクの方が、よほど簡単でしょう。--Jms 2008年4月13日 (日) 10:32 (UTC)[返信]
引用を行いたい場合は引用すればいいだけだと思います。また、ウィキペディア日本語版の記事は共同で製作している著作物なので該当部分の執筆者を限定する必要はないはずです。--iwaim 2008年4月13日 (日) 10:47 (UTC)[返信]
そこのところは記事総体に関する編集著作権としての側面と個別寄稿部分の著作権とを分離して考える必要があると感じています (まだ詰めてない)。まぁそれは別の話。--Jms 2008年4月13日 (日) 10:53 (UTC)[返信]
んー、「引用」的には出典元の判断つけばいいだけじゃないでしょうか。ウィキペディアだと履歴と差分が明確なので該当部分の執筆者の特定は可能ですが、一般的にはそのようなものは判らない訳なので、個別の文の著作権者は不明なケースも多いかと思います。また、ウィキペディア日本語版から引用しようとするとその部分の著作権を持っている人を特定することが必須だとすれば、それは「引用」の意図に背くことなのではないかと思います。特定する以外にも著作権者を全部列挙という手もあるかもしれませんが、それはそれでいろいろ問題がありそう。--iwaim 2008年4月13日 (日) 11:26 (UTC)[返信]
まだ詰めてないので「感じています」なのですが、Opaque か Transparent かという違いが効いてきそうに思いますし、著作物の同一性という点で本当に著作権でカヴァーできるのかどうか怪しい部分がないとはいえない GFDL も、ウィキペディアの差分明らか実装なら (加除式著作物的に) 寄稿者の著作権と GFDL を実装レベルで分離でき、同一性問題を克服できるのではないかと思っています。そう考えた時に、Tranparent レベルでリンクによらず引用の要件を満たすなら著者特定乃至全列挙というのが出てくるのではないかと「感じて」います。詰めていません、ハイ。--Jms 2008年4月13日 (日) 14:03 (UTC)[返信]
「引用」ならばそうですね。今回の事例は「ノート:引用」2008-04-12T23:18:36(UTC)の版差分ですが、私は引用の意図はないと判断しましたし、引用の要件も満たしていないと判断します。(まあ、引用の要件を満たすという見解もあるとは思う。私は引用なら引用元を要約欄で指定するのではなく、引用箇所の前後で明記すべきであろうと考えます)
GFDLを無視するのは避けるべきだと考えていますし、そこは柔軟に対処すべきではないと考えています。私としては適切な手法があるのだから適切な手法を用いて欲しいのですが、今回の事例は許容すべきというご意見でしょうか? --iwaim 2008年4月13日 (日) 10:47 (UTC)[返信]
(うっかりを補足しようと思ったら編集競合したけれどそのまま)で、引用なら改変ナシなので「記事本文のこの表現なんだけど、どないしまひょ」というのには使えないでしょう。改変して使いまわすつもりなら結局 GFDL でしょう。今回の部分はその意味では引用の意図ナシだとわたくしも思います。--Jms 2008年4月13日 (日) 10:50 (UTC)[返信]
えーと、意図は、引用2008年4月4日 (金) 22:13の版#引用を巡る最近の情勢に典拠が付かないので、ノートに移動して典拠を問う、です。典拠を問うでも、{{}}が言っているのかを問うでも同じだけど、とノート:引用に2008年4月13日 (日) 11:05) にiwaimさんが書かれましたが。Uryah 2008年4月13日 (日) 11:22 (UTC)[返信]
まとめて。
で、なんでよ? ていうか、「本文をそのまま持ってきて検討する」わけでしょ。持ってきたあといじくるってのは、持って来る段階には影響を与えませんよ。--Nekosuki600 2008年4月13日 (日) 11:13 (UTC)[返信]
だから、私は適切な方法で持ってきていないことを問題しているわけですが。Nekosuki600さんは妥当な手段で持ってきたと解釈しているようですが、そこは解釈の違いでしょう。--iwaim 2008年4月13日 (日) 11:26 (UTC)[返信]
◆引用しても問題ないとは思ってます。私も結構やりますし。もちろん、それをベースに改変する場合はGFDLの要件を満たすことが求められる状況もあるとは思いますが、必ずしもそうではないとは思います。なお、「引用」の方は議論や健闘を妨げたい訳ではないのですが、Uryah さんから手順に沿った一部転記は (井戸端への問題提起の後も) なされていませんでしたので、「ノート:引用」2008-04-13T11:05:26(UTC)の版に該当箇所の引用を行い、何故その部分に出典が必要なのかについての私の見解を書いておきました。--iwaim 2008年4月13日 (日) 11:26 (UTC)[返信]
いまいちばん私がわからないのは、、Wikipedia:削除依頼/ノート:引用が2008年4月13日 (日) 06:21 (UTC)に出されて、2008年4月13日 (日) 11:35 (UTC)時点でほとんど話が進まないままの状態で、当初の意図と同じものを置き換える記述をなんであわてて書かなきゃならなかったのか、iwaimさんの欲するところです。Uryah 2008年4月13日 (日) 11:35 (UTC)[返信]
今、私が一番不思議なことは、「私はUryahさんの編集にGFDL違反があると考えるので削除依頼を出した」ことと「削除依頼を出して少しの間待っても (Uryahさんは井戸端に問題提起するぐらいだからそのことに気づいているはずなのに) 「ノート:引用」にはそれ以降の動きがなかったので、(議論自体を妨げたい訳ではない私が) GFDL違反がない形で記載した」ことにUryahさんが矛盾を感じていることです。
Uryahさんは、私の欲するところがわからないようなので改めて明記しておきますが、GFDLのコンテンツの一部転記等を行う際にはGFDLに従って欲しい。仮に引用するならば引用の要件を満たして欲しいということです。--iwaim 2008年4月13日 (日) 11:47 (UTC)[返信]

まず、一般論として、「その記述がどこから来たのかわからなくなるのはダメ」という理念を、成文化したのがGFDLの文書であり「Wikipedia:著作権」であって、これらを守ることがすなわち「わからなくなってない」ということである、というのが、たぶん日本の法律の感覚です。米国法だと、もう少しゆるいのだと思いますけれど。著作権だと、どんなに問題ない使い方だと思えても、列挙された権利制限規定の対象となっていなければ、民法の権利の濫用を持ち出さなければ著作権侵害と捉えざるをえないのが、日本の著作権法で、とりあえず、公正使用なら使えるってことにして後は判例の積み重ねで判断されるのが、米国著作権法。

ウィキペディア日本語版では、記事全体を投稿者みんなの共同著作物ではなく、新たな版は二次的著作物であり、個々の(まとまった)加筆部分については改変者の著作物として捉えていたと思います。この場合は、該当する部分の執筆者の名前を、履歴ページの一部となる要約欄に記入することで、該当する部分の記述に関する履歴が保存されたと受け取る事ができます。なので削除は不要かなと思います。

今回の事例を見ると、該当部分の投稿者は少なくとも2008年4月6日までは活動されているので、まずは会話ページで記述の典拠を問いかけてみるのがよい/よかったと思いますし、本文からの移動の方法に疑義が生じたときにも、投稿者に許諾を得るのが手っ取り早い解決策だと思いました。

Uryahさんの疑問に答えるなら、Uryahさんの投稿がGFDLvioだと認識しているiwaimさんが、その投稿部分をrvすることで中抜き特定版削除可能な状態にして、改めて該当部分の記述をGFDLを守ってノートに書き込みことで、議論を継続し、かつ議論の成果を特定版以降削除によって失うことを避けるために、あわてて同じものを置き換える記述をした、ということになるでしょう。--Ks aka 98 2008年4月13日 (日) 14:16 (UTC)[返信]

コメントありがとうございます。まず、GFDLを満たすということについては私も了解しました。依頼自体は取り下げておきました。該当部分の著作権者への許諾については今後は状況次第で検討してみます。少なくとも今回のようなケースは著作権者への許諾を得るようにしてみます。--iwaim 2008年4月15日 (火) 18:50 (UTC)[返信]
(時系列が前後しますが) 履歴 (4I) は問題ないとしても、4J を満たせていないのではないかと思います。「記事本文」と四文字書くところを「[[引用]]」と六文字書けば済むことで、合理的な手間の範囲でしょう。これが記事名がやたら長く要約欄に収まらないというのなら別ですが。--Jms 2008年4月15日 (火) 21:04 (UTC)[返信]
4-Jは「履歴 (History)」に含む必要はないので、MediaWikiの「ページ」と「ページのノート」を関連付けて見せている実装で満たせていると解釈できるとは思います。--iwaim 2008年4月15日 (火) 22:02 (UTC)[返信]
「タブつながり」ですね。ノートの主たる目的からすると妥当だと思いますが、ノートと記事とを個別に改名できることを考えると慎重に扱うべき場合があると思います。Wikipedia:著作権/改訂案でそのあたりをどう扱ったものか…。面倒でも一律要約欄で、とした方が問題が起きた時の処理はずっと楽になるのですが。--Jms 2008年4月15日 (火) 22:23 (UTC)[返信]
はいそうです。改名云々の話については同感ですが、リンクしたところで改名の際の問題は解決しませんし、そもそも、その時点で成立していることから、今回のケースでは問題ないと解釈すべきでしょう。Wikipedia:著作権/改訂案では要約欄を使うことを推奨しておけばいいのではないでしょうか。「ノート」はページの従属物ではないことが明確になっていますから、記載は容易かな、とは思います。文面案とか書く場所を考えるのは大変ですけど。--iwaim 2008年4月16日 (水) 04:51 (UTC)[返信]
(Jmsさんの 2008年4月15日 (火) 21:04 (UTC)へ)あそこで成し遂げようとする目的は同じで、方法として、これ転載で、これ引用だと思っているのですが、違いますか?Uryah 2008年4月16日 (水) 10:04 (UTC)[返信]
少なくともわたくしの理解とは違わないと思います (たぶん。細部については何か違うかも)。問題は、実態としてほぼ同様なその二つの行為がなぜ異なってしまうのか、それを異なるとしているの価値観は何なのか、というところだと思います。--Jms 2008年4月16日 (水) 10:51 (UTC)[返信]
転載と引用を異なるとしているのは、価値観ではなくて、ありていな事実の違い。
  • 「転載」とは、誰かが公開した著作物を他の誰かが別の場所に公開すること。
  • 「引用」とは、「自分が公開する著作物」のなかに、他人の(他の誰かが公開した)著作物を含めること。
((今の日本の)著作権法の下では)転載は著作権者の権利を侵害する。でも著作権者の許諾を得ていたり、自由に転載していいよと著作権者が宣言している場合は、転載してもに著作権侵害にならない。GFDLは、その精神・目的は自由に転載して使い合おう、ということなのだけれど、でもただ開放するだけでは権利者が不当に不利益を蒙る場合が危惧されるので、「こういうやり方をするなら自由に使っていいよ」と条件を付けて宣言する。
ここの議論は、私が行った転載が、その条件を満たしたか否かがテーマでした。
形式を定義した厳密な条件を満たしていないなら削除されるべきだと述べ、この件は満たしていないのではないかとiwaimさんは言い、条件を満たしていると読めるとの解釈とGFDLの哲学と実務・理念と技術についてKs aka 98さんは述べ、コピーレフトを旨(精神)とするWikipedia内での転載は、読んだところ転載者の意図が分かり、その意図が許容できる/不当なものでない場合なら、厳密に条件を問わなくてもいいのではないか、もっと簡略な方法・運用はないだろうか、とゆきちさんが方向性を模索してみた。
ということだったのではないでしょうか(ご参照)。Uryah 2008年4月18日 (金) 22:34 (UTC)[返信]
価値観と書いたのは (おそらく、というのはわたくしが Uryah さんの意図を誤解しているかもしれないからであって、わたくしの意図についてはおそらくではありませんが) そういう意味ではなくて、GFDL な文書であるはずのウィキペディア文書の、ウィキペディア文書間での (広義の) 再利用に関し、履歴継承して転記することと、履歴継承せずに引用すること、この二つについてウィキペディアは異なる価値を見出しているでしょう、にもかかわらずあえて履歴継承をせずに引用する意味は一体何なのでしょう、ということです。--Jms 2008年4月19日 (土) 01:33 (UTC)[返信]
>履歴継承をせずに引用する意味は一体何
一般論として、いまウィキペディアではウィキペディア内の他人の著作物を転記する際に引用とGFDLに従った転載の両方のスタイルが行われていて、それはなぜなのでしょう、「引用」と「転載」を使い分ける意味は一体何?という意味ですか?だとしたら、それはなぜなんでしょう。たまたまその場で使った手法が違った、だけなのか、あるいはその投稿者は、選んだその手法が相応しいと思った個別の文脈・事情があるのか。両方の方法が入り乱れて使われていたとして、何に問題があるのか私はわかりませんが。
>この二つについてウィキペディアは異なる価値を見出している
お、そうなんですか。私の見聞の狭さなのか、それは実感していませんでした(もしかして「引用反対」意見を指している?)。簡単に書けるなら、後考のために教えていただけませんか?話がここのテーマからずれていきそうな気配もするので、長くでないと説明できない、であれば、私のノートに、世間話的に教えてください。めんどうだからまあいいや、であれば、まあ後日機会があったらお教えしますよ、と言ってくれていいです。
2008年4月18日 (金) 22:34 (UTC)の自発言にちょっと書き直し付記(Jmsさん、これはJmsさん個人宛の書き直しではないので、ここは読み飛ばして下さい。):GFDLは、その精神・目的は自由に転載して使い合おう、ということなのだけれど、でもただ開放するだけでは(著作権権利を放棄するのでは)開放した者が不当に不利益を蒙る場合が危惧されるので、「こういうやり方をするなら自由に使っていいよ」と条件を付けて自由な転載を認めると宣言する。権利は放棄してないよ、と。
Uryah 2008年4月19日 (土) 08:16 (UTC)[返信]
(インデント浅くします) ウィキペディアな GFDL 素材を、履歴継承せずに引用するのは、引用する人の無理解によるものだと解釈しています。折角 GFDL なのに、なぜ引用にしてそこで改変できなくしてしまうのか、わたくしには想像できません。異なる価値観、というのは、端的に言えば、Wikipedia:フリーでないコンテントの使用基準の「他のフリーな素材がない」、つまり GFDL なものがあるならそっちを使おう (使いまわしが効くから) です。GFDL 自体は権利に関してむしろガチガチな部分があってそのままでは使いにくいのですが、ウィキペディアの実装は差分が明確な形で記録しているので、著作物の同一性に関する疑義もなく、使いやすくできていると思っています。--Jms 2008年4月19日 (土) 08:32 (UTC)[返信]
たとえば、なぜこうする、という意味?Uryah 2008年4月19日 (土) 08:46 (UTC)[返信]
事後的な改変がなされないことを想定しないなら、適法に引用したほうが、文書が抱える履歴を限定する事ができますし、巻き込まれ削除を回避する事ができます。引用で済ませられるならば履歴を継承するのではなく引用のほうがいいという場面は少なくないと思いますよ。--Ks aka 98 2008年4月19日 (土) 09:02 (UTC)[返信]
一般論すなわちウィキペディア以外のソースも含んだ話としてはそうですが、疑問に思っているのは、ウィキペディア内のそもそも引用でない GFDL な部分について、なぜ再利用制限となる引用をウィキペディア内でするのか、です。巻き込まれ削除というのは (プライバシーなどの権利侵害を別とすれば) そもそも GFDL でないから発生する事であって (その手の権利侵害なら引用でも同様に削除されるし)、元のウィキペディア文書がきちんと GFDL していれば履歴をいくらかかえても問題ないでしょう、ウィキペディア外で利用しようとする人にとっては迷惑ですが (ああ、このあたりの迷惑感は結局 GPL のボーグなところを継承してしまっているかもしれません)。で、Uryah さんの問いについては、そのとおり、同じあるいはより少ない手間で履歴継承できるのに、なぜ引用なのだろう、ということです。--Jms 2008年4月19日 (土) 09:12 (UTC)[返信]
適法な引用であった場合は、引用の要件を満たさない形に改変される可能性があり、その意味で削除対象となる可能性はあります。他方、履歴の問題は生じませんから、「以降」削除に巻き込まれる可能性はないです。この記述自体には何の問題もないけれど、その投稿よりも前の版で削除する必要がある記述があった場合、元の記述が存在する版がまきこまれて削除されれば、履歴を継承した先の記事も削除対象となりますが、引用であれば、転記先は削除対象になりません。個人的な感覚としては、著作権者の権利が制限されているから問題なく引用で済ませられるものを、わざわざGFDLで「使用」するのか、って感じかなあ。--Ks aka 98 2008年4月19日 (土) 09:57 (UTC)[返信]
逆に、GFDL で使えるものを、わざわざ引用にして、一段階元に戻らないと再利用できない形にするんかい、って感じですが。元が GFDL でないといった場合はもちろん別です。GFDL で提供される前の段階の著作物というのがウィキペディア以外で公表されていない場合、GFDL はじまりでよかろうと思うのです。もちろん元著者がその寄与外部で利用する権利はあるのですが、著者の同一性証明がウィキペディア内で閉じた形でしかできない (外部で別途同定された著者が、ウィキペディアに寄稿はできるけれど、これは結局著作物の同一性の判定にウィキペディア外の情報を使っている) 以上、ウィキペディアはじまりは GFDL はじまりでしょう、と思います。--Jms 2008年4月19日 (土) 10:12 (UTC)[返信]
私がウィキペディア日本語版内で転記ではなく引用を行う理由はウィキペディア日本語版のローカルルールがちょっと面倒という点が大きいです。「引用」か「転記」かを選択する場合は本文をノートに転記するケースが大半だとは思いますが、その際にWikipedia:ページの分割と統合#一部転記の手順 (の2以外の手順) を踏むのは面倒です。何が面倒かというと、2回の編集になるということがWikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすというガイドラインの立場から他者に非難される可能性があるという点です。ですから、私は、引用で済む場合は引用で済ましてしまうのです。ウィキペディア日本語版の編集者はGFDLを理解しているのですから、引用している箇所を適法な範囲を越える形で再利用する場合はGFDLに従ってくれるだろうという目論見ももちろんあります。--iwaim 2008年4月19日 (土) 10:36 (UTC)[返信]
必要なのは元記事が何かを要約欄でリンクにより示すことであって、特に当該部分の著者特定に手間がかかる場合には、リンクによる履歴継承の方が遥かに簡便だと思います。たとえば記事本文からそのノートへ一部を履歴継承しつつ書き写す (コピーアンドペースト) 場合、Wikipedia:ページの分割と統合#一部転記の手順のうち必要なのは 3 のごく一部 ([[甲]] から転記、せいぜい版指定を加える位) だけです。内容の移動 (カットアンドペースト) にしたところで同様で、甲を編集するついでに乙のことも書いておく方が親切ではありますが、必須ではないでしょう。ああいう、論理性を欠く手順は再利用を妨げる不適切なものだと思います。再利用のために、再利用を妨げる。ばかげていると思います。GFDL とをよくよく読めばああいう答えは出てこないと思います。--Jms 2008年4月19日 (土) 11:08 (UTC)[返信]
まず、私はウィキペディア日本語版から引用する場合は該当部分の著作権者を列挙する必要はないという解釈をしています。どのページのどの版から引用したのかを明示することで出所の明示という要件を満たすという解釈です。
Wikipedia:ページの分割と統合#一部転記の手順がGFDLの規程よりも手順を煩雑にしているということは同意しますし、そのために再利用の容易さを損なっているという点も同意します。だから先の発言ではローカルルールと表現しました。状況によりあの手順を踏んだ方が判りやすさの面で良いケースも多々あるかとは思いますが、必須にするのはどうかなぁ、と思います。まあ、実際はあの手順を踏んでいない転記は結構見かけますけどね。--iwaim 2008年4月19日 (土) 11:33 (UTC)[返信]
転記という言葉についてわたくしは間違った理解をしていたかもしれません。転記というのは書き移すことであって、書き写すのは転写? しかし「変更箇所をこの書類にも転記しておいて」と言われた場合、元の書類の変更箇所は消去しませんし、「変更箇所をこの書類にも転写しておいて」と言ったら、怪訝な顔をされた上でコピー機に歩いていかれそうな気がします。それはさておき、翻訳のガイドラインでは五人以上規定について選出困難であり翻訳するなと言われているに等しいと大ブーイングでしたが、Wikipedia:ページの分割と統合でその声はないのでしょうか。Wikipedia:ページの分割と統合は事前合意が必要といったごく限られた場合にだけ使う手順であって、一般の手順ではないのかもしれません。WP:NCではそういう扱いだと思います。--Jms 2008年4月19日 (土) 17:55 (UTC)[返信]
書き写すときも転記でいいと思いますが、それはさておいて。Wikipedia:ページの分割と統合の経緯などは知りませんが、推奨レベルだからではないでしょうか。また、Wikipedia:ページの分割と統合#項目一部転記は確かに事前の合意が必要な場合のみという受け取り方もあるかもしれません。その場合、どこを転記したのかというの明確化するために2ステップに別けるというのはありかもしれません。ただ、それをしなかったら著作権侵害になるってのはちょっと微妙な表記なのかな、とは思います。また、特殊な状況下のみという受け取り方がある一方、あらゆる場合に必要な手順だと考える人もいるかもしれません。
まあ、現状ではWikipedia:ページの分割と統合Wikipedia:翻訳のガイドラインWikipedia:著作権では扱いが違っているのは事実で、Wikipedia:ページの分割と統合では一部転記の際の手順が煩雑な一方、翻訳の際などには「翻訳をともなうコピー・アンド・ペースト」などといったある意味柔軟な (しかし問題はない) 手順となっています。私自身は翻訳のときなどでも、一旦他言語のものをそのままもってきてから翻訳する方が編集者にとって便利だとは思っているんですけどね。事実、私は記事の他言語からの翻訳については初版はその言語のものそのまま転記しています。これをやると翻訳文をポストする前に{{Sd}}貼られたりしますけどね。ちなみに「無意味に版を増やすな」と言われたことは今のところ無いです。まあ、言われたとしても意味があると考えている訳なので別にいいのですが。--iwaim 2008年4月19日 (土) 18:27 (UTC)[返信]
理論上は原文転記の上で翻訳が適切な手順なので、要約欄に「[[:en:Circcirc]] いついつ版より翻訳のため転記」とあって実際に翻訳の過程である場合は{{Sd}}対象外にした方が良いと思います。--Jms 2008年4月19日 (土) 21:35 (UTC)[返信]
(補足) 議論はされている様です、反映はされていませんが。--Jms 2008年4月19日 (土) 23:18 (UTC)[返信]
ああ、初版に翻訳目的ってのをいれればいいのか。{{Sd}}貼る人がみてるかどうかはわかりませんけど、以前「著作権侵害のため白紙化」と書いて白紙化してもリバートされた経験あるし。ま、管理者が削除しようとするときには見てくれるだろうし。きっと。--iwaim 2008年4月20日 (日) 00:45 (UTC)[返信]

少し違います。GFDLは、位置情報は要求していません(データに位置情報は意味が無い)。GFDLが要求しているのは、(データでなく)著作者の履歴と、データの利用の開放です。

メディアウィキの要約欄にあれこれ書かないといけないというウィキペディア上の事項から、GFDL遵守に対して差分と出処を書かないといけないと思う人は多いですが、それは本来GFDLの要求ではありません。出処は、著作者の履歴を見るための代替案にすぎません。大体のところは、テンプレートで済ませています。

僕は、GFDL違反という考え方は無くすべきだと思っています。実際、GPL違反のソフトウェアに対して「ソースを公開せよ」という論調はあっても、「直ちに回収するべき」という論調は見たことがありません。GFDL自身、過去の版にまで遡って調整せよという要求はしていません。法律では無いのだから、どの時点でも帳尻をあわせてもいいはずです。実際、GFDL違反という考えを適用しているサイトを見たことがありません。--ゆきち 2008年4月15日 (火) 15:55 (UTC)[返信]

ええと、話はちょっと逸れているのに合わせますけれど。
GFDLが要求しているのは、履歴ページおよび改変者等表示の、履歴ページへの保存です。ですから、履歴ページをどこにおくか、ということで、どこに履歴ページを保存するかという点で、GFDL文書との適合は問題となりえます。どこかに書いてあったかと思いますが、著作者表示が合理的に可能かどうかということで運用できるか、文章通りに解して運用しないといけないかというのは、契約あるいはそれに類するところの日米の法およびその解釈によって、異なってきます。ぼくは、民法までは理解していないので、今のところ、文書に従わなくても大丈夫だという見解は出せずにいます。どなたかが、大丈夫と請け負ってもらえるなら、それはそれでよいのですけれど。
「差分」については、必要ないという意見に同意します。「出処」については、これを示さないのであれば、GFDLの要求に応じるためには改変者表示をしなければならず、それが難しいから「出処」によって「合わせ読む」ことで、表示に変えているのだと理解しています。
GFDL違反については、基本的にはGFDLに違反する複製や改変は、著作権者の許諾範囲から外れたものですから、著作権侵害として捉えるべきものだと考えます。ただし、投稿者がウィキペディアンであり、フリーであること、あるいはコピーレフトな立場を理解しているとして、コンテンツの自由な流通を促すことを優先させて、事後的な帳尻あわせを許容するという考えは理解できます。その点では、外部の著作物の権利侵害と異なる対応をとるという方向で制度化することはありえる選択肢だと思います。事後的な帳尻あわせの方法のひとつは、RFAの質問テンプレートの議論の中で挙げた事があります。また、方針文書を作るなり加筆するなりということで対応することも、文章表現は難しいところもありそうですが、可能ではあるでしょう。現実的には、GFDL違反という考え方をなくすというのは、別のライセンスを採用するということに繋がるとも思います。
GFDLは過去の版に遡って調整することは求めていませんが、GFDL違反によって作られた版を許容するという記述もありません。過去の版に遡って調整するのでなければ、上記の通り権利侵害の版を公衆送信可能な状態に置き続けることになります。
他方、GPL違反の事例と異なるのは、ソフトウェア開発であれば、参加できる能力を持つ集団と、「フリー」という概念が生じた経緯から、「フリー」であることへの共通認識が得られているとみなすことはできると思いますが、ウィキペディアの場合は、何らかの項目を編集する事ができる人すべてが参加するプロジェクトであり、そこではあらかじめ「フリー」の概念は十分共有されているわけではありません。過去、自発的なものであれブロック依頼を通じたものであれ、ウィキペディアから去ることになった利用者が、自分の投稿分の削除を求めたり、除去してまわるといった例もありました。
では、そこで、実際に権利侵害を理由とした法的措置をとられた場合、どうなるかということを考慮する必要があります。先に書いたとおり、ぼくは大丈夫だと言えるだけの理解がないですし、古い版でのGFDL違反や翻訳を除けば、GFDL違反による削除は、情報を損なわず復元する事が可能な場合も少なくないですから、現状では、今のような運用のほうが、安心なのではないかと思います。--Ks aka 98 2008年4月15日 (火) 17:23 (UTC)[返信]
話がずれちゃって申し訳ないですが、基本的にやるべきことは、「投稿されたコンテンツがGFDLに準拠し、その後もフリーで扱えるかどうか」であって、「投稿した当事者がフリーを理解しているか」ではないはずです。ウィキペディアは啓蒙団体ではないので。そういう意味では、チェックシートみたいのがあると便利なのですけどね。それに、GFDL違反と権利侵害は異なります。既存法に反しているならそれ以前の問題ですから。
自分の言ったことを少し補足しますが、ここで僕が願っているのは、「GFDL違反だから削除」ではなくて、「GFDLに準拠していない文書を他の形でフォローする」ということです。ノートに履歴をフォローする方法があってもいいじゃないですか。先も言ったように、過去の版にさかのぼって対処しなければいけない理由はどこにもないし、いちいち削除に手間取らせることは、全体の負担になります。それだったら、ノートで注意書きやコメントを残すことで対処できれば、管理者も利用者も手間になりません。方法として何が負担にならないかは何ともいえないですが、最初から削除しか無いという考えは硬直気味です。正直、Ks aka 98さんだけにこのことを言っても仕方ないのですが、一応の問題提起としてあげておきます。--ゆきち 2008年4月16日 (水) 09:59 (UTC)[返信]
ゆきちさんは《GFDL違反という考え方は無くすべきだと思っています》という主張を持っているということは理解しました。では、今回の件に関係あるように4-Iに限定して質問しますが、履歴を継承できていない記事を生成しつづける利用者に対してはどうやって諌めればよいでしょうか。ある時点で4-Iを満たしていない記事については最新版で (履歴への追記等の) 救済策を実施していくとしても、その行為者に対しては今後の改善を求めていく必要があるわけです。そこで出てくるのが「GFDL違反」という考え方が必要になってくるのでは?
また、ゆきちさんは、履歴不継承の場合もGPL違反と呼ばれることはご存知ないようですが、GImageViewとPornViewの事例について調べてみてください。--iwaim 2008年4月15日 (火) 18:50 (UTC)[返信]
上に書いた通り、単にGFDL違反を反古にするということではなくて、その対処を改善したいということです。実際、Pornviewもソフトウェアの廃棄ではなくて、GPL準拠で済ませたようですしね。--ゆきち 2008年4月16日 (水) 09:59 (UTC)[返信]
たぶんいろいろずれていると思いますが、それはともかくとして、ゆきちさんはGFDL違反についてのウィキペディア日本語版における対処を変えたいということだけは了解しました。--iwaim 2008年4月16日 (水) 13:27 (UTC)[返信]