Wikipedia:井戸端/subj/出典がかかる範囲の明示方法について

出典がかかる範囲の明示方法について[編集]

先日Wikipedia内を散策していたところ、小田急4000形電車 (初代)このような編集がありました。

的はずれなテンプレ4連発(しかも、ノートに適当な指摘なし)からして、嫌がらせのたぐいだとは思うのですが、本文中の{{要出典}}については一旦存置しています。

で、気になったのですが、「○○××であり、△△□□である[1]。」というようになっていた場合に、この出典[1]が「△△□□である」だけにかかるのか、文全体にかかるのかは出典自体を確認しないかぎり判然としません。それを突いて「○○××であり[要出典]、△△□□である[1]。」のようになっていたのですが、やはり都度「○○××であり[1]、△△□□である[1]。」と書くほうがいい、ということになるのでしょうか。--Jkr2255 2016年6月20日 (月) 23:07 (UTC)[返信]

コメント小田急4000形電車 (初代)についてはリバートしました。Jkr2255さんが示された差分の1つ前でこのように、出典が除去されており、その次にそこへ「要出典」がつけられています。

  • 「○○××であり[1]、△△□□である[1]。」
  • 「○○××であり、△△□□である[1]。」
にして
  • 「○○××であり[要出典]、△△□□である[1]。」
にしているわけです。この一連の編集がリバートに値するものであることは明白でしょう。最初に「出典除去」をやった方は西武3000系電車国鉄203系電車西武30000系電車愛知電気鉄道電7形電車小田急3000形電車 (初代)でも同じことをしています。(203系だけはリバートしましたが、ほかはその後の編集があって単純リバートができないので、そのままにしてあります。)対象がGAとFAばかりというあたりに特殊な意図があるような気がします。
Jkr2255さんのおっしゃる一般論としてどっちがいいか、はケースバイケースでしょう。その主題について知見のある方や、出典を実際に検証した方が、ノートなどで適切な意見を述べながら議論するべきことであり、「表面的な形式しか見ないで同じ出典を文末にまとめる」ような編集はしないほうがいい。情報源で「○○××である。」「△△□□である。」とあったものを「○○××であり、△△□□である」とした場合に、2つの事実に関係性(因果律だとか)が生じるような場合に、それが妥当なのかどうか、独自研究になってしまわないか、場合によっては2文に分けるほうがいい、ということもあるでしょうね。--柒月例祭会話2016年6月20日 (月) 23:36 (UTC)[返信]
コメント 件の記事では、#主要機器節に「○○[1]と××[1]、△△[1]、◇◇[1]に使用され~」という記述を「○○と××、△△、◇◇に使用され[1]、~」という改め方もされていますが、後者の記述でも何ら問題ないと思いますし、読点ごとに同じ出典を書く必要性は感じません。その部分の、○○と××それぞれに{{要出典}}が後から付けられているように、出典がどの部分までかかるかというのは読点で区切られていなくても厳密にはわからないわけで、最初に書く時点で読点ごとに出典を置いても結局こういったことは起こり得ますし、省いてしまって構わないと思います。それでもし記述内容に問題があれば、コメントなしの{{要出典}}ではなくコメント付き、あるいは{{出典無効}}などで対処されるわけで。--Knoppy会話2016年6月21日 (火) 03:17 (UTC)[返信]
コメント 件の編集を行った張本人です。このような編集を行った根拠は、過去に行われたWikipedia:秀逸な記事の選考/愛知電気鉄道電7形電車の中で出典の付け方が過剰だという指摘が2人の方により行われていたことでした(Yapparina 2013年6月5日 (水) 13:15 (UTC)と、はひふへほ(会話) 2013年6月26日 (水) 10:01 (UTC)。共に敬称略)。結局この選考は途中で打ち切りになったためこの指摘の是非について深い議論は行われませんでしたが、反対意見は最後まで出ませんでした。他の秀逸な記事を幾つか見ても一つの文に複数の同じ出典が付いているもの(「○○××であり[1]、△△□□である[1]。」のようなもの)は(鉄道記事以外には)無かったので、やはり出典が過剰なのだと判断し、選考のコメントで挙げられていた例に倣って編集した次第です。‎Knoppyさんは気付いて下さって本当にありがたいのですが、ただ単純に出典を削るのではなく、文意を損ねないような工夫もしたつもりです(「○○[1]と××[1]、△△[1]、◇◇[1]に使用され~」を「○○と××、△△、◇◇[1]に使用され~」とすると、[1]は◇◇だけの出典であるようにも見えるので「○○と××、△△、◇◇に使用され[1]、~」としました)。
また過去の井戸端(Wikipedia:井戸端/subj/一つの出典が複数の文に掛かる場合の脚注の示し方)でも、「読点が間に入っていても内容的にひとつの事柄(そして同じ出典)であれば問題はないので、最後の句点の前におく」というコメント(Hisagi(会話) 2015年9月22日 (火) 08:32 (UTC) (敬称略)))や、「1959年[7]、文章1[7]。」ではなく「1959年、文章1[7]。」が良いという旨の発言(Keisotyo(会話) 2015年9月22日 (火) 11:04 (UTC)(敬称略))が示されていた事も申し添えておきます。--Silver-corrector会話2016年6月22日 (水) 12:04 (UTC)[返信]
コメント私のごく個人的な感想としては、「文末にまとめて」でもじゅうぶんじゃないかなー、というのは同感です。ただし、「除去しなければならないほど過剰」「過剰さが問題」とは思わないし、そこらへんは実際に調べ物をして執筆した執筆者さんの意向を尊重してあげればいいのに、とは思います。
  • しかし私の感じ方とは違う考えの方もいて、重複している出典を除去したらそこへ「要出典」をつける人もいるわけで(今回示された例では「リバートに値する」と私は考えました)、そういうのを予防するために出典をコマメに多めにつける心情は理解できます。(以前どこかで「魔除け」と表現された方もいました)--柒月例祭会話2016年6月22日 (水) 12:50 (UTC)[返信]

コメント 現状の版だけを見て確認するのは不十分で、結局は「履歴を見ないと出典(脚注)の対応付けを完全には確認できない」のではないでしょうか(もちろん、元の出典を確認することも大事ですが……)。他の編集者が文章を推敲して文の順番が変わったりしますし、途中で細かな情報が加筆されたりもします。著作権侵害が疑われた時には履歴を丹念に調べますが、{{要出典}}を付けるときにも同様の対応が必要ではないかと考える次第です。また、できるだけ複数の文献を出典として信頼性を向上させる、その結果として脚注が細かく付く、という状態が望ましいような気もします。--Assemblykinematics会話2016年6月24日 (金) 23:35 (UTC)[返信]

コメント 最後の編集から1カ月経ちましたので、一度意見を述べさせて頂きます。

柒月例祭さんへ。
  • 柒月例祭さんは編集の変遷を3つ列挙し、その上で「この一連の編集がリバートに値するものであることは明白」(=自分が編集する前の「○○××であり[1]、△△□□である[1]。」が正しい書き方であることは疑う余地がない)とおっしゃっていたので、『「文末にまとめて」書くの事自体に反対』なのだと思っていました。ですから自分の編集の正当性をどのように説得するか思案していましたが、柒月例祭さんも『「文末にまとめて」でもじゅうぶん』とお考えならば、「○○××であり、△△□□である[1]。」という方法を反対意見無しとして採用させて頂きたいです。「執筆者の意向を尊重」とおっしゃいますが、それがwikipediaの合意に反するものであれば、変更されるのは仕方が無い事だと思います。今回は出典が過剰ですが、例えば不足している場合はどうでしょうか。ある人が、詳細で膨大な文章を書き加えてくれたとします。書かれている事は全て真実かつ有用である。でも全く出典が示されていない。この場合、「執筆者の意向(や努力)を尊重」して、出典がないまま書かれ続ける事はWikipediaのルール上、良い事なのでしょうか。ガイドラインにある検証可能性のページに「私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。」とある以上、何らかの方法で出典を要求されるのは不思議では無いでしょうし、更にはこれらの処置の後にも無出典が放置されれば記述そのものが除去されることさえあるかもしれません。それぞれの参加者が好き勝手に書いてしまうと収拾がつかなくなるからルールが決められているのであり、それに反していた場合「執筆者の意向」など大した力は持ちません。「出典は文末にまとめればよい」というのは井戸端で示された幾つかの意見を拾い上げただけであり、指針として明文化されたものほどの拘束力は確かに無いかもしれません。それでも概ね総意であるとみなせる状態なのですから、根拠も示せない「読点または単語ごとに出典を示す」書き方より優先されると考えます。
  • 編集について「ケースバイケース」であるのはもちろん反対しませんが、その基準はどこかに書かれていないと後で編集する者が混乱します。例えば「鉄道記事では読点・単語ごとに出典が必要である」とどこかに書かれていれば出典を文末にまとめる編集は行いませんでしたが、そのような事はどこにも書かれていませんでした。「編集に携わっている誰かがそう考えている」だけの方針では、従おうにも従えません。
この投稿から1カ月経っても「○○××であり[1]、△△□□である[1]。」という編集自体が正しいとする事に有効な意見が示されない場合、現在は柒月例祭さんにリバートされた状態になっている小田急4000形電車 (初代)国鉄203系電車を自分の編集へ差し戻します。要出典を付け直したのが初心者でないアカウント取得者であれば対話も試みるのですが、いまだにこの編集1回だけしかないIP利用者であり、ノートに書き込んでも返答されない可能性は高いのでまず編集を行います。最近気が付きましたが小田急3000形電車 (初代)でも同じ要出典の付け直しとテンプレの貼り付けが、こちらも編集1回のIP利用者(小田急4000形電車 (初代)の編集者と同一人物でしょうか)によってなされておりました。こちらは既に取り消された(=出典をまとめた)状態で約6週間経っており、IP利用者さんは何が何でも読点ごとの出典に固執するつもりは無いようです。もし次回自分の編集が取り消された場合は、この井戸端での議論を示すなどして対話を行いたいと思います。--Silver-corrector会話2016年7月25日 (月) 13:21 (UTC)[返信]
どういうやり方が「正しい」とかそういう話ではありませんし、過去の(それも、特定の記事についてのローカルな場での)議論であったりこの場での議論を「根拠」にするというやり方は適切ではありません。出典のつけ方についての「正しい」共通見解は今のところ存在しませんし、この議論が何らかの価値を持つ訳でもありませんので勘違いをなさらないよう。
そして、自分が書くならば「○○××であり[1]、△△□□である[1]」よりも「○○××であり、△△□□である[1]」とするだろう/そのほうが望ましいと考える方は一定数いらっしゃるでしょうが、しかし少なくとも、機械的に「出典過剰」だと主張して削って回るような乱暴なやり方を「正しい」と支持する人間は誰一人としていないことに注意してください。--Hisagi会話2016年7月25日 (月) 14:46 (UTC)[返信]
というかまぁ、同一人物ですよね。出典過剰と言って削り、元々出典があったところに別人のふりをして要出典を貼る。上で合意だー総意だー基準だーと言葉遊びをしているあたり、こういう荒らしに手慣れた感じもしますが。--Hisagi会話2016年7月25日 (月) 14:56 (UTC)[返信]
承知しました。先のWikipedia:井戸端/subj/一つの出典が複数の文に掛かる場合の脚注の示し方におけるHisagiさんの発言を含めて「ローカルな議論」を根拠にしていましたが、上記の通り強力な拘束力があるとは思っていませんし、これを根拠にすることを否定されるならば、こちらからはこれ以上何も言えません。鉄道分野に特別な興味があるわけでは無いですし、要出典とテンプレを付けたIP利用者と同様にこちらも何が何でも自分の編集を貫きたい訳でもないので、この件に関しては以後は静観します(小田急4000形電車 (初代)や国鉄203系電車の差し戻しも行いません)。柒月例祭さんに対しては偉そうな事を述べてしまい、申し訳ありませんでした。今後は「他人は他人、自分は自分の方法」と割り切って細々と活動して参ります。
ただ、Hisagiさんの2つ目の発言については反論致します。自分が「同一人物」と書いたのは、小田急3000形電車 (初代)で要出典を付けテンプレを貼った122.131.36.246(2016年6月12日 (日) 17:12‎)と小田急4000形電車 (初代)で同様に要出典を付けテンプレを貼った133.204.104.40(2016年6月12日 (日) 16:38)という2つのIP利用者についてです。Hisagiさんは、このSilver-correctorというIDも含めて同一人物であり、つまりあなたが言うところの「出典過剰と言って削り、元々出典があったところに別人のふりをして要出典を貼る。上で合意だー総意だー基準だーと言葉遊びをしている」のは全て自作自演だとでも言いたいのでしょうか?「別人のふり」をしたのではなくSilver-correctorは122.131.36.246や133.204.104.40とは「別人」です。Hisagiさんの言うような荒らし行為は行っておりませんので、最後にそれだけ申し上げておきます。--Silver-corrector会話2016年7月26日 (火) 09:17 (UTC)[返信]