蘇我日向
時代 | 飛鳥時代 |
---|---|
死没 | 不明 |
別名 | 字:身刺(むさし) |
主君 | 皇極天皇→孝徳天皇 |
氏族 | 蘇我氏 |
父母 | 父:蘇我倉麻呂 |
兄弟 | 石川麻呂、連子、日向、赤兄、果安 |
蘇我日向(そがの ひむか)は、飛鳥時代の官人。蘇我倉麻呂(雄正)の子。
経歴
「皇極紀」に拠れば、皇極天皇3年(644年)、日向の異母兄であった右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の娘と中大兄皇子(後の天智天皇)が婚約した夜に、その娘と密通した。ただしこの件で日向がなにかしらの咎を受けた記録は無い。[1][2]
大化5年(649年)、日向は「石川麻呂が中大兄皇子を殺害しようとした」と讒言、軍を率いて石川麻呂を追討し、石川麻呂は自害して果てた。その後石川麻呂の無実が明らかとなり、中大兄皇子は日向を筑紫国の筑紫宰としたが、世間ではこれを隠流し(かくしながし、あるいはしのびながし)と評したという。[3]
つまり、表向き栄転の形で実際には左遷という意味だが、左遷か栄転かでこの事件の評価は変わってくる。当時の半島情勢からみて筑紫宰は外交上重要な職であること、古人大兄皇子や有間皇子の事件と経過が酷似していることからみて、事件の首謀者は中大兄皇子であり、日向はその功で栄転したとする見方は多い。また、前述の密通事件も、石川麻呂と中大兄皇子との縁談を破談にさせ、右大臣の威信を揺るがし、最終的に蘇我氏惣領の地位を得るための行動、と考えることもでき、さらには密通事件の頃は既に中大兄皇子のシンパとなっており、その指示を受けて行動した、と考える見解もある。
のち日向は白雉5年(654年)、孝徳天皇の病気平癒のために般若寺を創建したと伝えられる(上宮聖徳法王帝説)。この般若寺が、奈良般若寺と筑紫般若寺、片岡般若院(古くは片岡寺・般若寺と称せられていた)のいずれを指しているかはまだわかっていない。