陽泰院
ようたいいん 陽泰院 | |
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生誕 |
天文10年(1541年) 肥前国佐嘉郡与賀庄飯盛城 (現在の佐賀県佐賀市本庄町鹿子上飯盛) |
死没 |
寛永6年1月8日(1629年2月1日)(89歳没) 肥前国佐嘉郡佐賀城 (現在の佐賀県佐賀市) |
死因 | 老衰 |
墓地 | 高伝寺(佐賀県佐賀市本庄町) |
別名 |
彦鶴 藤 陽泰院殿芳林妙春大姉(戒名) |
配偶者 | 鍋島直茂 |
子供 | 鍋島勝茂・鍋島忠茂・彦菊姫・千鶴姫 |
親 |
父:石井常延 母:蓮華院 |
陽泰院(ようたいいん、天文10年(1541年) - 寛永6年1月8日(1629年2月1日))は、戦国時代から安土桃山時代・江戸時代の女性。佐賀藩祖・鍋島直茂の正室で、初代藩主・鍋島勝茂の生母である。名は彦鶴(ひこつる)、後に藤(ふじ)。家臣からは、御簾中、藤の方、北の方などと称されたが、一般的には陽泰院または彦鶴姫として知られている。
領民からは国母と敬われ、慕われた。現在に至るまで、夫の直茂とともに佐賀県民に人気が高い歴史上の人物の一人。
生涯
飯盛城主石井常延(兵部少輔)の次女として生まれた。生母は蓮華院(黒尾氏)。父常延は、肥前国の戦国大名龍造寺隆信の家老であった。
長じて、彦鶴は龍造寺家の家老・納富信澄に嫁いだ。しかし、永禄9年(1566年)、夫信澄が戦死したため、信澄との間に儲けた一人娘(後の慈光院)を連れて実家に戻った。
あるとき、有馬晴純との合戦に勝利した龍造寺隆信は、鍋島直茂ら重臣と軍勢を従えて、龍造寺城に凱旋の途上、石井家の居城・飯盛城に立ち寄り、昼食をとることにした。城主・常延は、鰯を焼いて振る舞うことにしたのだが、供の人数が多く、城の厨房では、人数分の鰯をなかなか焼くことができず、侍女たちが難儀していた。すると彦鶴が現れて、侍女たちに「手際が悪い」と叱責し、みずから釜戸の火をかき出して庭先に広げ、その上に鰯を並べて、大量の鰯を手際よく焼き上げた。この機敏な姿に感嘆した直茂は、「あのように機転の利く女性を妻に持ちたい」と惚れ込み、彦鶴に求婚した逸話が『葉隠』に伝えられている。
永禄12年(1569年)、直茂32歳、彦鶴29歳で結婚した。隆信が最も頼りとする譜代重臣・鍋島家と石井家の縁組とあって、主君の隆信も大変喜んだという。当時では珍しく、夫の直茂と恋愛結婚であった。
しかし当時、鍋島家と石井家、そして納富家は、龍造寺家の家臣団中の大身であり、この三家の姻戚関係をみると、実際には恋愛結婚ではなかった可能性も高い。
夫直茂は、隆信の副将として活躍し、その覇業に大きく貢献した。直茂は戦場に身を置くことが多く、彦鶴はそんな夫を陰で支え続けた。
気丈夫で聡明、かつ慈悲深い性格が伝えられている。『葉隠』によると、夫直茂との仲は終世よく、隠居した直茂とともに穏やかな老後の生活を送っている様子もみられる。また、夫とともに家臣・領民を思いやる記述もみられる。
陽泰院は鍋島家が名実ともに佐賀藩主となったことを見届けて、89歳の長寿を全うした。夫直茂が死去し、落飾して10年後のことであった。
墓所は鍋島家の菩提寺高伝寺に造営され、墓石はかつて夫直茂が朝鮮に出陣した際、陣中で一夜の枕とした石を持ち帰っていたものが用いられ、直茂の墓石に寄り添うように建てられた。
佐賀県佐賀市嘉瀬町にある西林寺は、陽泰院が晩年開基した寺院である。
人物
- 夫の鍋島直茂とは、先述のとおり、直茂が出陣から帰還する際、飯盛城で初めて出会ったように描かれているが、直茂は幼少の頃、彦鶴の父・石井常延から学問を習うため、飯盛城に夜学に通った話が伝わっている。幼少の頃から2人は面識があった可能性もある。
- 中世から江戸時代にかけ「後妻打ち(うわなりうち)」という、離別した夫が再婚すると、前妻は女性の仲間を集めて、箒や鍋などを武具に見立てて、後妻のもとに乗り込んで襲撃するという蛮習があった。陽泰院も、夫直茂と新婚の頃、直茂が離別した前妻・慶円尼(高木胤秀の娘)の後妻打ちを受けた。しかし、陽泰院は、慶円尼らに茶菓子などを供して丁重にもてなしたため、何事もなく帰って行ったという。
- 筑後国の国衆・田尻鑑種が龍造寺家に謀反を起こしたとき、龍造寺隆信は人質としていた幼少の田尻善右衛門を処刑することにした。刑場に座らされ死を待つ幼子をみた陽泰院は、不憫に思って、隆信に善右衛門の助命を強く嘆願した。陽泰院の頼みとあって、隆信は善右衛門の処刑を取り止め、身柄を陽泰院に預けることにした。善右衛門は成長して、鍋島家の家臣になった。後世に至って、陽泰院が逝去した際、善右衛門は「この命はそもそも奥方様に助けられた命である」といって、陽泰院を追って殉死した。ちなみに、田尻鑑種の反乱により、陽泰院は、実兄石井伊豆守賢次を喪っている。
- 天正12年(1584年)3月24日、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで大敗を喫し、嫁ぎ先の鍋島家や、実家の石井家からも多数を戦死者を出した。敗報に接した留守居の家臣たちが動揺する中、陽泰院は実家の石井家や家臣の面々に「鍋島直茂の妻」としてお悔やみの書状を書き送り、家臣の団結に努めている。
- 豊臣秀吉が、朝鮮出兵の最中、出陣している大名の妻子を招いて慰労したことがあった。秀吉の好色ぶりは有名であったため、陽泰院はその招きを丁重に断った。しかし「前例になると困る」という豊臣家側の意向が伝えられ、やむなく秀吉の招きに応じることにしたが、一計を案じて、陽泰院は醜い髪形と化粧を施して、秀吉への拝謁に臨んだという話が伝わっている。しかし秀吉が50代前後の女性に手を出すとは考えにくく真実とは言い難い。