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石井蔵人

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石井 忠清/石井 蔵人
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
死没 慶長14年1月21日1609年2月24日
戒名 清徳院日利
官位 蔵人(受領名)
主君 龍造寺隆信政家鍋島直茂
氏族 肥前石井氏藤原氏
父母 父:石井忠本、母:倉町家光の娘
兄弟 忠喬忠清忠晴
景弘忠昌忠増、蔵人、石井重次
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石井 忠清/石井 蔵人(いしい ただきよ/いしい くろうど)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将肥前国戦国大名龍造寺氏の重臣。 肥前国佐嘉郡飯盛城石井駿河守忠義の四男駿河守忠本の次男。肥州石井党の惣領。母は倉町蔵人家光の娘。同じ諱の石井和泉守忠清は伯父にあたる。

来歴

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石井蔵人忠清は、肥前国佐賀城主・龍造寺氏の重臣・石井氏の四男家(駿河守家)の生まれであるが、龍造寺隆信の命により、石井党の惣領とされ、一族を統率した。蔵人が惣領に任ぜられたのは、先代の惣領で伯父にあたる石井和泉守忠清天文22年(1553年)が病没してからと考えられる。

永禄5年(1565年)、龍造寺隆信が、肥前国三根郡中野城主馬場鑑周を攻めたとき、龍造寺軍配下の石井隊が先陣となって奮戦した。しかし、隆信が信任厚い御馬廻衆の将・石井源次郎らが戦死し、隆信は中でも、源次郎の死をとても惜しみ、哀愁の感状をしたため、石井党の惣領である蔵人忠清に贈っている(『北肥戦誌』)。

元亀元年(1570年)、今山の戦いでも、鍋島直茂が敵方の大将・大友親貞を討ち果たした後、蔵人忠清は石井隊を率いて、納富信景隊に合流し、敗残大友軍の掃討にあたっている(『北肥戦誌』)。

蔵人忠清が病死すると、石井党の惣領は、石井嫡男家(和泉守家)連枝で、蔵人の娘婿にあたる石井孫左衛門尉重次が引き継ぎ、その後は、蔵人の孫婿にあたる石井修理亮茂成へと引き継がれ、石井寄合の大組頭となった。

蔵人忠清の嫡男・但馬守景弘とその子孫は、佐賀藩においても、旧・惣領の由緒により重んじられた(『佐賀藩諸家差出戦功書』)。