藤原芳子
藤原 芳子(ふじわら の ほうし/よしこ、生年不詳 - 康保4年7月29日(967年9月6日))は、村上天皇の女御。藤原師尹と藤原定方九女との間の娘。宣耀殿を賜ったので宣耀殿女御(せんようでんのにょうご)と呼ばれる。また、小一条女御、大将御息所とも呼ばれる。
彼女の長子・昌平親王が天暦10年(956年)生まれなので、その年以前には入内していたと思われる。天徳2年(958年)10月に女御宣下。宣耀殿女御と呼ばれるようになる。天徳3年(959年)2月に正五位下、応和2年(962年)1月に従四位下。康保2年(965年)に永平親王を出産する。
類いまれなる美貌で、目尻が少し下がりめの、非常に長い黒髪だったという。『大鏡』には、誇張もあるだろうが、そんな彼女の様子が、「御車に奉りたまひければ、わが身は乗りたまひけれど、御髪のすそは母屋の柱のもとにぞおはしける(お車にお乗りになれば、ご本人は(車に)乗ってらっしゃるのだが、髪の毛のすそはまだ母屋の柱にある)」と記されている。村上天皇の寵愛も厚かった。そのことに関して、中宮の藤原安子が非常に嫉妬し、土器の破片を芳子に向かって投げつけたという記事も『大鏡』に記されている。
また、非常に聡明でもあり、『古今和歌集』二十巻すべて暗記していたという。村上天皇はこの噂を聞き、本当に暗記しているのか、物忌みの日に試験した。ところが、芳子はすべて間違えることなく暗記していた、という記事が『大鏡』藤原師尹の章、および『枕草子』二十段(皇后藤原定子が語る話題として)に記されている。宣耀殿女御瞿麦合を天暦10年(956年)5月に主催。『玉葉和歌集』と『続古今和歌集』に彼女の歌が一首ずつある。
『大鏡』によれば中宮の安子が死去した後は、かえって寵愛が衰えてしまったらしい。息子は夭折していたり病弱だったりと、結局東宮にはなれなかった。
村上天皇の崩御から、2か月あまりで死去した。