コンテンツにスキップ

ギルバート・ヘイ (第11代エロル伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2023年3月13日 (月) 02:35; 126.227.109.106 (会話) による版(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

第11代エロル伯爵ギルバート・ヘイ英語: Gilbert Hay, 11th Earl of Erroll PC1631年6月13日1674年)は、スコットランド貴族

生涯

[編集]

第10代エロル伯爵ウィリアム・ヘイと妻アン(Anne、旧姓ライアン(Lyon)、1637年2月8日没、初代キングホーン伯爵パトリック・ライアン英語版の娘)の息子として、1631年6月13日に生まれた[1]。1636年12月7日に父が死去すると、エロル伯爵位を継承した[1]。6歳のときには両親を失っており、1638年8月30日に父と祖父の遺産継承者としての認定を受け、1639年に年金を与えられた[1]。母方の祖父キングホーン伯爵が家庭教師を務めた[2]

1650年12月、パースで開かれていた議会に命じられ、1651年1月1日にスコットランド大司馬英語版としてスクーンで行われたチャールズ2世の戴冠式に出席した[2]。その後、クロムウェル恩赦法英語版により2,000ポンドの罰金刑に処されたが[1]、1654年に請願を出して無実を訴えた[2]。この請願において、エロル伯爵はプレストンの戦いダンバーの戦いウスターの戦いのいずれにも参戦せず、未成年で議会での投票権がないことを挙げた[2]。結局、罰金は3分の1に軽減された[1]

チャールズ2世による王政復古を支持して[2]、1661年にスコットランド枢密院英語版の枢密顧問官に任命された[1]。また、エロル伯爵位とスコットランド大司馬の世襲をいったん返上して、1666年11月13日に再叙爵を受け、継承規定を「サー・ジョン・ヘイ、その直系男子、その女系子孫」の順番に変更した[1]

1674年にスレインズ英語版で死去[2]、1666年に定められた継承規定に基づきサー・ジョン・ヘイが爵位を継承した[1]

家族

[編集]

1658年1月7日、キャサリン・カーネギー(Catherine Carnegie、1637年ごろ – 1693年10月3日、第2代サウセスク伯爵ジェームズ・カーネギーの娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[1]。エロル伯爵の死後、1688年の名誉革命ジェームズ7世(イングランド王としてはジェームズ2世)が国を追われると、キャサリンはサン=ジェルマン=アン=レーに向かい、そこでジェームズ7世の息子ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートのガヴァネスを務めた[1]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j Paul, Sir James Balfour (1906). The Scots Peerage (英語). Vol. III. Edinburgh: David Douglas. pp. 578–579.
  2. ^ a b c d e f Mackintosh, John (1898). Historic Earls and Earldoms of Scotland (英語). Aberdeen: W. Jolly & Sons. pp. 254–258.
軍職
先代
第10代エロル伯爵
スコットランド大司馬英語版
1636年 – 1674年
次代
第12代エロル伯爵
スコットランドの爵位
先代
ウィリアム・ヘイ
エロル伯爵
1636年 – 1674年
次代
ジョン・ヘイ