コンテンツにスキップ

ハインリヒ6世 (ロイス=ケストリッツ伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2023年1月24日 (火) 13:39; Locust-of-abaddon (会話 | 投稿記録) による版(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ハインリヒ6世
Heinrich VI.
ロイス=ケストリッツ伯
アントン・グラフによる肖像画
在位 1748年 - 1783年

出生 (1707-07-01) 1707年7月1日
ディッタースバッハ英語版
死去 (1783-05-17) 1783年5月17日(75歳没)
ケストリッツ英語版
埋葬 ホーエンロイベン市街教会ドイツ語版
配偶者 4代モンテレオン女侯爵エンリケータ・フアナ・フランシスカ・スサナ・カサード・イ・ユグタン
子女 一覧参照
家名 ロイス=ケストリッツ家(長子系)
父親 ロイス=ケストリッツ伯ハインリヒ24世
母親 エレオノーレ・フォン・プロムニッツ=ディッタースバッハ
テンプレートを表示

ハインリヒ6世Heinrich VI. Reuß, Graf und Herr von Plauen und Köstritz, 1707年7月1日 - 1783年5月17日)は、ドイツの貴族、伯爵。デンマーク王国プロイセン王国両政府に行政官として仕えた。ロイス家の分枝ロイス=ケストリッツ家長子系の当主。

生涯

[編集]

ロイス=ケストリッツ伯ハインリヒ24世とその妻の男爵令嬢エレオノーレ・フォン・プロムニッツ=ディッタースバッハ(1688年 - 1766年)の間の次男として生まれた。後に義弟となるローフス・フリードリヒ・ツー・リナールドイツ語版と一緒に育てられ、1726年よりリナールと一緒にイェーナ大学で法学を学び、1729年学位取得のための討論(Disputation)をしている。また、ハレ大学にも通った。学業を終えるとオランダ、イングランド、フランスを巡るグランドツアーに出かけた。

1732年コペンハーゲンに赴き、デンマーク政府の官庁の1つドイツ官房ドイツ語版に就職。1742年クリスチャン6世王により、クリスチャンサンの都市長官及びネデナス郡の郡長官に任命された。1746年にはソーレ郡郡長官に転任し、再興されたソーレ・アカデミー英語版の校長(Oberhofmeister)を務めた。1747年7月26日に行われたアカデミーの開所式では、デンマーク語で非常に優れたスピーチを行った。リングステズ郡英語版をソーレ郡に組み込んだ。1754年セナ―ボー郡英語版の郡長官となった。

1765年デンマーク政府の官僚を辞したが、それはおそらく任地での任務だった泥炭地開発ドイツ語版が困難を極めたことと、実質的な後ろ盾だった義弟のリナールがオルデンブルクドイツ語版デルメンホルストドイツ語版伯領総督を解任されたことが関係していると思われる。まもなくプロイセン政府に仕え、州知事や侍従を務めた。

ダンネブロ勲章エレファント勲章[1]などを受けた。

1748年に父が死ぬとケストリッツ家の分封領(パラギウムドイツ語版)を相続し、伯爵家の家長となった。死後、ホーエンロイベン市街教会ドイツ語版内のロイス家霊廟に葬られた。

子女

[編集]

1746年12月16日コペンハーゲンで、スペイン国籍の裕福な女子相続人、第4代モンテレオン女侯爵エンリケータ・フアナ・フランシスカ・スサナ・カサード・イ・ユグタン(1725年 - 1761年)と結婚した。彼女の父方の祖父はスペイン在オランダ大使イシドロ・カサード・デ・アセベド・イ・ロサレススペイン語版(初代モンテレオン侯爵)、母方の祖父はデンマーク最初の銀行の設立者ジャン・アンリ・ユグタンドイツ語版(初代ギルデンステーン伯爵)であった。妻との間に7人の子をもうけた。

  • フリーデリケ(1748年 - 1798年) - 1767年ゾルムス=バールト伯ヨハン・クリスティアン2世と結婚
  • エレオノーレ(1749年)
  • ハインリヒ40世(1750年 - 1751年)
  • ハインリヒ43世(1752年 - 1814年) - ロイス=ケストリッツ侯
  • ハインリヒ45世(1753年 - 1768年)
  • 子(1755年)
  • ハインリヒ48世(1759年 - 1825年) - 1784年伯爵令嬢クリスティーネ・フォン・シェーンブルク=ヴェクセルブルク=フォアダーグラウハウと結婚

長女フリーデリケの一人娘アマーリエ(1768年 - 1847年)とその夫のホーエンローエ=ランゲンブルク侯カール・ルートヴィヒを通じて、夫妻は欧州の多くの王室の成員の直系祖先にあたる。

著作

[編集]
  • De Iureiurando Per Procuratorem In Caussis Privatis, Imperii R. G. Publicis Et Liberarum Gentium Exercitatio. Jena: Fickelscherr 1729 (Digitalisat, Bayerische Staatsbibliothek)
  • Rede, so bey der Einweyhung der Königl. Ritteracademie zu Soröe den 26 Jul. 1747 gehalten worden / von … Heinrich dem VI. Reuß, Grafen … von Plauen, Herrn zu Greitz, Cranichfeld, Gera, Schleitz und Lobenstein, Sr. Königl. Majest. zu Dänemark, Norwegen [et]c. Geheimen-Rath, Cammer- Herrn, Ober-Hofmeister, und Amtmann über Soroe und Ringsted. [S.l.], 1747 (VD18 10044914)
Digitalisat, Staatsbibliothek Berlin

参考文献

[編集]
  • Louis Bobé: Reuss, Henrik Vi. af. In: Carl Frederik Bricka (Hrsg.): Dansk biografisk Lexikon. Tillige omfattende Norge for Tidsrummet 1537–1814. 1. Auflage. Band 14: Resen–Saxtrup. Gyldendalske Boghandels Forlag, Kopenhagen 1900, S. 19–20 (dänisch, runeberg.org).

引用

[編集]
  1. ^ J. H. F. Berlien: Der Elephanten-Orden und seine Ritter. Kopenhagen 1846., S. 111.
先代
ハインリヒ24世
ロイス=ケストリッツ伯
1748年 - 1783年
次代
ハインリヒ43世