山田忠次
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山田 忠次(やまだ ちゅうじ、1890年〈明治23年〉7月8日[1] - 1986年〈昭和61年〉3月22日[2])は、日本の逓信官僚。朝鮮総督府官僚。
経歴
[編集]山形県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格[3]。逓信局書記、同属、通信事務官補、秋田郵便局長、福島郵便局長、朝鮮総督府逓信事務官、京城貯金管理所長、通信事務官、京都郵便局長、逓信局事務官、広島逓信局規画課長、大阪逓信局規画課長、同用品課長、逓信書記官、郵務局規画課長、経理局需品課長、大臣官房保健課長、同秘書課長を経て、1936年(昭和11年)に仙台逓信局長に就任した[3]。同年7月、朝鮮総督府逓信局長に移り、高等海員審判所長を兼ねた[3]。
1941年(昭和16年)に退官した後は、朝鮮住宅営団理事長を務めた[3]。
脚注
[編集]- ^ 大衆人事録 1943.
- ^ 『逓信協会雑誌 5月』77頁。
- ^ a b c d 人事興信録 1941.
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版(下)』人事興信所、1941年。
- 『逓信協会雑誌 5月』逓信協会、1986年。