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長井昌言

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長井 昌言(ながい まさのぶ、? - 明治6年(1873年))は、江戸時代末期(幕末)の旗本。官位は従五位下・筑前守。通称は五右衛門。

来歴

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戸田氏栄の三男(桂三郎)で、長井昌純の娘・可年の婿養子[1]文久元年(1861年小姓組番から使番となり、翌2年7月に目付となり、翌3年4月辞し、6月に神奈川奉行に就任した。同3年8月先手弓頭となる。9月には騎兵頭となり、従五位下・筑前守に叙任された。元治元年(1864年堺町奉行となり、慶応元年(1865年)11月20日に京都東町奉行に任じられたが、幕末の混乱により着任できないまま12月に辞任し寄合となる。再び慶応3年7月に出仕し目付となるが、慶応4年(1868年)正月、勤使並寄合となる。知行地の下総国八木ケ谷村に移り、のちの戯作者で俳諧師や新聞記者でもある鶯亭金升が生まれた。のちに新政府に出仕して、工部省鉄道局の官吏となったが、明治6年に没した。墓所は品川区本立寺

長井氏の祖は斎藤別当実盛で長井庄に住し、長井姓を代々名乗った。屋敷は麹町裏二番町にあり、幕末期の長井氏の知行地は12箇所あり1652石。

脚注

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  1. ^ 『船橋市史 近世編』P69には養子か実子か定かでないとある。

参考文献

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  • 『角川日本姓氏歴史人物辞典』角川書店
  • 鶯亭金升『明治のおもかげ』岩波書店、2000年
  • 『船橋市史 近世編』1998年