稲垣太篤
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稲垣 太篤(いながき もとあつ、文化7年8月1日(1810年8月30日)- 文久2年12月8日(1863年1月27日))は、近江山上藩の第7代藩主。
第6代藩主・稲垣定成の長男。母は秋月種徳の娘。正室は大久保忠保の娘。子は娘(稲垣太清正室)。官位は従五位下、若狭守、安芸守、長門守。
初名は定国。文政10年(1827年)7月28日、将軍徳川家斉に御目見する。天保5年(1834年)10月10日、父の隠居で家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下・若狭守に叙任する。天保12年(1841年)7月8日、大番頭に就任する。弘化3年(1844年)6月18日、奏者番に就任する。安政5年(1858年)6月25日、若年寄に就任する。安政7年(1860年)5月28日、解任される。万延元年(1860年)8月6日、婿養子の太清に家督を譲って隠居し、文久2年(1862年)に53歳で死去した。
系譜
[編集]父母
正室
- 大久保忠保の娘
子女
- 稲垣太清正室
養子
参考文献
[編集]- 『日本人名大辞典』(講談社)