佐藤円治
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さとう えんじ 佐藤 圓治 | |
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生年月日 | 1897年8月24日 |
没年月日 | 1971年7月30日(73歳没) |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1924年-1942年 |
著名な家族 |
三條美紀(娘) 紀比呂子(孫) |
事務所 | 日活 |
佐藤 圓治(さとう えんじ、明治30年(1897年)8月24日 - 昭和46年(1971年)7月30日)は、日本の俳優。娘は女優の三條美紀[1]、孫は元女優の紀比呂子。
来歴
山形県東田川郡東栄村(藤島町を経た後に鶴岡市)出身。山形県立荘内農業学校卒業。日本映画俳優学校卒業。
大正13年(1924年)、日活に入社した。デビュー作は『伊藤巡査の死』(鈴木謙作、溝口健二など共同監督)。
昭和17年(1942年)、大映誕生後は、事務方に転身し演技課長や部長職などを務めた[1]。
人物・エピソード
日本の活動写真が昭和10年ごろを境にトーキー発声に移ると、それまで発声の必要のなかった映画俳優はセリフを喋らなければならなくなって、これがために大スタアまでが人気を落とし、銀幕から姿を消すという一大転換期を迎えた。
村田宏寿と並んで、ひどい東北弁だった佐藤円治だが、これが特徴となって、トーキー時代を生き延びた俳優の一人となった。あるとき村田が佐藤にこう言った。
- 「えんず、おみゃーはひょうずんごがちかえねえからだみだ(円治、お前は標準語が使えねえから駄目だ)」
すると佐藤はこう返した。
- 「なぬぬかし、くみよりぼきのほうがるっぱなひょうずんごだ(何抜かす、君より僕の方が立派な標準語だ)」
これは当時、映画界では有名な話だった[2]。
鶴岡市藤島庁舎(旧藤島町役場)にある忠犬ハチ公試作石膏像は、円治の娘の三條美紀が安藤士(渋谷ハチ公像の制作者)が作業場として使っていた借家を家財ごと購入したのがきっかけで円治のもとに渡り、その後、湯野浜温泉の旅館や藤島町にあった建設会社などを経て藤島役場庁舎完成記念として、この建設会社から役場に寄贈されたものである。石膏像は2012年(平成24年)6月24日より、毎年4月15日から翌年2月15日までの期間はJR鶴岡駅にて公開されている。
出演作品
- 伊藤巡査の死(1924年)[注釈 1]
- 海の鳴る男(1924年)
- 箕面心中(恋の笑蝶)(1924年)
- 君国の為に(1925年)
- 街の手品師(1925年)
- 貧者の勝利(1925年)
- 世界の女王 四部作(1925年)
- 愛慾の岐路(1925年)
- 大地は微笑む 第二篇(1925年)
- 闇の中の顔 後篇(1925年)
- 小品映画集《馬》(1925年)
- 地獄に落ちた光秀(1926年)
- 銅貨王(1926年)
- 国境を護る人々(1926年)
- とんとん拍子(1926年)
- 日輪 前篇(1926年)
- 吉岡大佐(1926年)
- 日輪 後篇(1926年)
- 神田の下宿(1926年)
- 軍神橘中佐(1926年)
- シベリヤお龍(1926年)
- 勇敢なる水兵(1926年)
- 茶色の女(1927年)
- A38号室(1927年)
- 借りた指輪(1928年)
- 地球は廻る 第一部 過去篇(1928年)
- 愛の町(1928年)
- 母いづこ(1928年)
- 名のらぬの父(1928年)
- スキー猛進(1929年)
- 第二の母(1929年)
- 妖怪無電(1929年)
- 女七変化(1930年)
- この太陽 第一篇(1930年)
- この太陽 第二 多美枝の巻(1930年)
- この太陽 第三篇(1930年)
- 港の抒情詩(1932年)
- 前線部隊(1934年)
- 愚連隊の唄(1934年)
- 抱かれた恋人(1934年)
- 乃木将軍(1935年)
- 召集令(1935年)
- 赤ちゃんと大学生(1935年)
- 魔風恋風(1935年)
- 人生劇場 青春編(1936年)
- 彼女の場合(1936年)
- 高橋是清自伝 前後篇(1936年)
- 五人の斥候兵(1938年)
- 人生劇場 残侠篇(1938年)
- 土と兵隊(1939年)
- 沃土万里(1940年)
- 歴史 第一部 動乱戊辰(1940年)
- 歴史 第二部 焦土建設、第三部 黎明日本(1940年)
- 将軍と参謀と兵(1942年)
脚注
注釈
- ^ 実際の巡査殉職事件を基にした活動写真。