郭攸之
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郭攸之 | |
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蜀漢 侍中 | |
出生 |
生年不詳 荊州南陽郡 |
死去 | 生年不明 |
拼音 | Guō Yōuzhī |
字 | 演長 |
主君 | 劉備→劉禅 |
郭 攸之(かく ゆうし、生没年不詳)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての官僚、政治家。蜀漢に仕えた。字は演長。荊州南陽郡の人。
事績
才能と学問で当時の人々に名を知られた。劉備に仕えた時代の事績は残らないが、出師表によれば費禕・董允らと共に劉備から抜擢されたという[1]。劉備の死後は引き続き劉禅に仕えた。
官位は、出師表で侍中として挙げられている以外、明確でない。『三国志』「廖立伝」によると、侍中だった廖立は、223年に劉禅が即位すると長水校尉に移されたが、その後に「中郎の郭演長は人に付き従うのみの男で、大事を謀るには能力が不足しているくせに、侍中になっている」と語っている。一方、『華陽国志』「劉後主志」では、224年に費禕・董允と共に、黄門侍郎に任命されている。
227年、諸葛亮は出師表において、費禕・董允と同列に郭攸之の名を挙げた。素直で真心があり(「良実」)、志は純粋である(「志慮忠純」)とし、損益を斟酌して忠言を尽くすのはこの3人であると、諸葛亮は評している[2]。また「貞良死節之臣」とも称賛されている。しかし、郭攸之は穏やかで素直な性格であるがゆえに、侍中の官位に留まるのみであった。そのため、劉禅に忠言を奉る役割は全て董允が担ったという[1]。
小説『三国志演義』でも、出師表に名前が挙げられるのみで、取りわけ活躍が見えない。