コンテンツにスキップ

伊奈忠辰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2022年8月17日 (水) 10:37; エンタシス (会話 | 投稿記録) による版(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
川崎平右衛門と伊奈忠辰の謝恩塔(東京都国分寺市の妙法寺)

伊奈 忠辰(いな ただとき、宝永2年(1705年)- 明和4年10月15日1767年12月5日))は、江戸時代中期の関東郡代通称造酒助、半十郎、半左衛門。

来歴

[編集]

伊奈忠順の長男として生まれ、寛延3年(1750年)7月30日、関東郡代伊奈忠逵が退任し、その跡を継ぎ、関東郡代となり、奥右筆頭組次席を兼ねた。宝暦4年(1754年)9月5日致仕し、忠逵の子の伊奈忠宥が跡を継いだ。治世としてはわずか4年余であった。なお、このころの伊奈家が郡代として管理する幕府領は27万石、開発新田2万石で、その1割が役料、その他家禄4000石と家臣400人を召抱えており、実質大名並みの権勢を誇っていた。墓所は深川の玄信寺