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君仁親王

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君仁親王
きみひとしんのう
続柄 鳥羽天皇第三皇子

身位 親王
敬称 殿下
出生 天治2年5月24日
死去 康治2年10月18日
父親 鳥羽天皇
母親 待賢門院
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君仁親王(きみひとしんのう、天治2年5月24日ユリウス暦:1125年6月27日) - 康治2年10月18日1143年11月26日[1]は、平安時代後期の皇族鳥羽天皇の第三皇子[1]。母は中宮藤原璋子(待賢門院、権大納言藤原公実女、白河上皇養女)[1]。同母姉に賀茂斎院となった禧子内親王、同母兄に崇徳天皇と夭折した通仁親王、同母妹に准母として立后した統子内親王(上西門院)、同母弟に後白河天皇覚性入道親王がいる。通称は三宮、若宮。

来歴

誕生後数日で昏睡状態に陥ったが、鳥羽天皇の護持僧でもあった行尊大僧正加持祈祷を行ったところ、その甲斐あってか意識は取り戻した。翌月16日に親王宣下を蒙り君仁と名づけられる。しかし生まれながら重度の障害があり、自力で床から起き上がることもできず、藤原頼長はその日記『台記』に「筋あり骨なし」と書き記すほどだった。誕生した翌年の11月に魚味始を行ったのが記録に残る唯一の公式行事で、以後その他一切の行事は行うことができなかったとみられ、生涯にわたって満足な会話を行うことすらできない状態だった。

保延6年(1140年)8月9日に出家したが、体調の好転を望むべくも無く康治2年(1143年)10月18日に薨去。享年19。

出典

  1. ^ a b c 君仁親王 コトバンク