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藤原公実

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藤原 公実
時代 平安時代後期
生誕 天喜元年(1053年
死没 嘉承2年11月14日1107年12月29日
別名 三条大納言
官位 正二位権大納言
主君 後三条天皇白河天皇堀河天皇鳥羽天皇
氏族 藤原北家閑院流
父母 父:藤原実季、母:藤原睦子藤原経平の娘)
兄弟 公実保実仲実苡子
藤原基貞の娘、高階永業の娘
藤原実政の娘、藤原光子藤原隆方の娘)
藤原通家の娘
実隆三条実行実兼藤原経実室、覚源、西園寺通季、仁実、徳大寺実能実子公子藤原経実室、源有仁室、璋子季成済実藤原家政
特記
事項
三条家西園寺家徳大寺家の祖
崇徳後白河天皇の外祖父
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藤原 公実(ふじわら の きんざね)は、平安時代の後期の公卿歌人藤原北家閑院流大納言実季長男官位正二位権大納言三条大納言と称す。鳥羽天皇外伯父崇徳天皇後白河天皇の外祖父。

経歴

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後三条朝初頭の治暦4年(1068年叙爵し、延久2年(1070年左兵衛佐任官。延久4年(1072年)従兄弟にあたる白河天皇践祚に伴い、公実は五位蔵人に補せられる。延久5年(1073年左近衛少将に遷ると、延久6年(1074年正五位下次いで従四位下承保2年(1075年)従四位上・左近衛中将、承保4年(1077年正四位下と近衛次将を務めながら昇進を重ねた。

承暦4年(1080年)正月に蔵人頭に補せられると、12月には参議に任ぜられ公卿に列す。議政官の傍らで引き続き近衛中将を兼帯し、この間の承暦5年(1081年従三位永保3年(1083年正三位に叙せられている。

応徳3年(1086年)白河天皇が堀河天皇譲位して院政を開始するが、公実は従兄弟である白河上皇の信任が篤い一方、堀河天皇にも近臣として仕える。応徳4年(1087年)公実は権中納言に昇進し、皇后宮権大夫(後三条天皇の皇后馨子内親王)を兼帯した。その後も寛治2年(1088年従二位、寛治3年(1089年正二位と昇進を続け、のち衛門督・検非違使別当も兼帯している。康和2年(1100年権大納言に至った。

康和5年(1103年)妹で堀河天皇の女御であった藤原苡子が産んだ宗仁親王が生後7ヶ月で春宮に立てられると、公実は春宮大夫を兼ねる。嘉承2年(1107年)宗仁親王が即位鳥羽天皇)したが、この際に公実は摂関家の当主忠実が若年であることを侮って、幼帝の外舅の地位にある自らこそ摂政に就任すべしと主張した。しかし、「五代もの間、並の公卿として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当の源俊明に一蹴されたという話がある[1]。また、鳥羽天皇の即位直後、天皇の側近く仕える公卿が行うべき作法を天皇の伯父である公実が知らなかったことを藤原忠実から批判されている[2]。公実が摂関の地位を得られなかったことについて、公実を含む閑院流には天皇を後見するために必要な有職故実が伝わっていなかった上に、鳥羽天皇の即位時に閑院流の公卿は権大納言の公実と弟の権中納言の仲実しかおらず、輔仁親王という皇位継承を巡る競争相手が控えた鳥羽天皇の後見として閑院流(公実・仲実兄弟)は頼りにならなかった、という現実的な理由があったとの指摘がある(樋口健太郎[3]

鳥羽天皇の即位からわずか4か月後の同年11月14日に病死。享年55。

人物

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歌壇でも活躍し、長治2年(1105年)頃奏覧の『堀河院御時百首和歌』に出詠し、後拾遺集以下の勅撰和歌集に57首が入集している。また家集『公実集』(断簡のみ)がある。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 「公季ヲモヒモヨラデ、ソノ子ムマゴ実成、公成、実季ト五代マデタエハテヽ、ヒトエノ凡夫ニフルマイテ代々ヲヘテ、摂政ニハサヨウノ人ノイルベキホドノツカサカハ」(『愚管抄』巻4)
  2. ^ 『殿暦』嘉承2年7月28日条
  3. ^ 樋口健太郎『中世王権の形成と摂関家』吉川弘文館、2018年 ISBN 978-4-642-02948-3 P20-21

参考文献

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関連項目

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