一柳直敬
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政4年(1792年)[1] |
死没 | 安政5年9月17日(1858年10月23日)[1] |
別名 | 順之助[2][1] |
戒名 | 智徳院殿勇健日輝大居士[1] |
墓所 | 東京都杉並区の妙祝寺[1] |
官位 | 従五位下 近江守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 父:一柳直郷 |
子 | 直方 |
一柳 直敬(ひとつやなぎ なおよし[3])は、江戸時代の旗本。旗本寄合席一柳家(播磨高木陣屋5000石)の当主。甲府勤番支配を務め、能書家としても知られた。
経歴
一柳直郷の三男として生まれるが、兄2人が夭折したため家督を継ぐ[2]。篤学の人であり、能書家として知られたという[4]。
従五位下近江守に叙任された[3][注釈 1]。文政10年(1827年)時点では甲府勤番支配を務めている(相役は板倉勝昇)[5]
文政12年(1829年)、甲斐国田中陣屋(現在の山梨県山梨市一町田中、田安家の陣屋[6])に日吉神社神主が撰した「節婦之碑」の碑文を書した[7][8]。この日は享保13年(1728年)の日川の洪水の際、老いた姑を背負って避難させ、次いで寝たきりの夫を背負って避難しようとして濁流に流された「栗」という女性を顕彰するものである[7]。この石碑は1907年(明治40年)の大水害で流されてしまったが[7]、1930年(昭和5年)に山梨県女子師範学校校長久米卯之彦が「女子教育の素材」として碑文の原文を模して山梨高等女学校(現在の山梨県立山梨高等学校)に建てたものが現存している[7]。
昭和初期に一柳一族の事績をまとめた一柳貞吉『一柳家史紀要』によれば、「臣下を薫陶し、領地を開拓し、水利を治する」などの功績があったという[3]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f 一柳貞吉 1933, p. 36.
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.158、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.158。
- ^ a b c 一柳貞吉 1933, p. 31.
- ^ 一柳貞吉 1933, p. 32.
- ^ 藤井明広 2019, p. 80.
- ^ “【市指定史跡】田安陣屋跡”. 山梨市. 2021年9月14日閲覧。
- ^ a b c d “君は節婦の碑を知っていますか”. やまかいの四季 No.87. 山梨高校理科教室 (1996年4月22日). 2021年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月20日閲覧。
- ^ “節婦之碑 拓本”. ヤフオク. 2021年9月14日閲覧。[信頼性要検証]
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第六百三
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年 。
- 藤井明広「文政期における駿府目付の職務実態」『立正大学文学部論叢』第142号、2019年。 NAID 120007032106。